ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

冬にわかれて の話 B♭の上に鳴るソ

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あくびをしている間にも、春は近づいてきている

 

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音楽を聴いていると、自分の好きな〝和声に対しての主旋律の当て方〟があることに気がつく。

ポップミュージックを聴くとき、多くの場合は主旋律に耳を傾ける。でも、その背景にはコードが流れていて、僕たちは無意識のうちにそのコード(和声)との関係性の上でメロディ(旋律)のイメージを受け取っている。例えばCコードの上のメロディはAm7の上でも鳴らすことができるけれど、そこから受けるイメージはCコードのそれとは全然違う。

よく、音楽を聴いて「素敵なメロディだ」なんて感想を言う人がいる。僕も言う。でもメロディだけを切り取って評価することは実は難しくて、どんなコードの上にあるかによってメロディは本当の意味を持つ。(と思っている。専門的に音楽を学んだことがないので、実際に音楽の世界でどう考えられているかはわからない。)

 

だからコードとメロディの関係性にも好き嫌いは生まれる。例えばマイナーコードの上にメロのトップが9度(楽器を弾かない人には分かりにくい表現かもしれない。ごめんなさい。音階はルートを1度として数字で表現する事が出来るのです。)で入ってくると僕はゾクッとしてしまう。胸を掻きむしられる感じがして好きだ。マイナーコードの持つ悲しさの中に切なさが足されるイメージ。Al Kooper「Jolie」のイントロなんかがそう。


Al Kooper-Jolie

 

あと最近好きなのは、3和音のメジャーコード(1.3.5)に対してのトップが6度で入るメロディ。和声の中に含まれてない音がトップで入ることはそんなに多くはないけれど、それでも僕の好きな名曲には使われていることが多い。はっぴいえんどの「風をあつめて」もそうで、サビのコードがE (ミソ#シ)に対してボーカルの頭がド#。ベン・E・キングの「Stand by Me」もそうだ。


【高音質】はっぴいえんど 風をあつめて

 

和声を4和音(1.3.5.6)で捉えてジャズっぽいニュアンスになっているのか、音楽的に詳しい仕組みはわからないけれど、メロが6度で入った時の世界観がとても好きだ。3和音から外れているのに短7度のような不安感も無いし、かと言って増7度や9度のように過度なエモーションを与えるわけでも無い。コードを俯瞰で眺めているような独特の立ち位置で、まるで懐かしい思い出話でもしているような、そんな距離感が6度の音にはある。そう、思い出話。自分の中ではこれがしっくりくる表現だ。

きっとそう思うのは、先にあげた曲たちのせいかもしれない。はっぴいえんどの「風をあつめて」(そして収録されているアルバム「風街ろまん」)は東京オリンピックを境に近代化する以前の東京を歌っているし、「Stand by Me」を聴いて思い浮かべるあの映画は言わずもがな、少年時代を懐古する映画だから。思い出の6度。懐かしい音。

 

 

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寺尾紗穂さんのバンド〝冬にわかれて〟を初めて聴いたのは深夜ラジオだった。偶然流れてきた「なんにもいらない」の冒頭「なんにもいらないよ 君の幻以外は」と言う歌詞を耳にした途端、脊髄反射的に、好きだな、と思った。好きになるときはだいたいそんなものだ。理屈じゃない。理屈はだいたい後からついてくる。

いい曲だなと思って手元のギターでコードをとると最初のコードがB♭。それに対してコード頭のボーカルはソ。6度だ。なるほどな、と夜中に一人ほくそ笑む。

すぐにApple Musicでアルバムを聴くと曲も歌詞も演奏も素敵だったので、すぐに寺尾紗穂さんのエッセイ『彗星の孤独』を注文する。

素敵な言葉に溢れた本だった。

 

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最初に聴いた曲の影響も大きいだろうけれど、音楽も文章も寺尾さんの作品は総じて6度のような世界観が流れているように感じる。3和音に含まれることなく、適度な距離感を保ち、俯瞰で冷静に、感情を過度に出す事もない。でもそれが逆説的に胸に響く。太陽の周りを回る彗星のような、そんな6度の世界観。

まぁ、つまり、僕は好きだな、という事。

 

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調べてみると僕の住む街でもライブをするとの事だったので、チケットをとって観に行くことにした。

MCで寺尾さんが〝冬にわかれて〟と言うバンド名は尾崎翠の「冬にわかれて 私の春を生きなければならない」という詩のタイトルからとったのだと話されていた。

偶然にも、そのライブの日は立春だった。

〝冬にわかれて〟を観るのには最高の日だった。

 


冬にわかれて - なんにもいらない

なんにもいらない

なんにもいらない

 

 

彗星の孤独

彗星の孤独

 

 

全ての音楽はラブレター理論

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夜、知り合いから買った豆でコーヒーを淹れてみる。

ミルでガリガリと挽いたその瞬間から、コーヒーの香りが部屋に立ち込める。普段インスタントコーヒーを飲んでいる身からすると、コーヒーを淹れる作業は一種の「儀式」に近い。インスタントな作業ではなく、しっかり手間をかけて珈琲タイムを迎える儀式。カフェインの持つ効能を踏まえれば、それは「宗教的」と言っても差し支えないと思う。

お供は自家製のスコーン。お気に入りの椅子に座って、音楽は、そうだな、カーティスメイフィールドなんかのニューソウルをうるさくない程度に流してみる。

それで完璧だ。何もかも完璧。

 

 

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先日、知人がやっている喫茶店で珈琲豆を買った。その場で焙煎してくれるというのでお願いをすると、その待ち時間の間に、僕が買った豆がどんな豆で、焙煎の仕方によってどんな味の違いが出るかの説明もしてくれた。ただ、正直なところ、そんな説明をしてくれても珈琲豆にはあまり興味がないし、多分覚えられないな、なんて思っていると最後に知り合いが「まぁコーヒーって何を飲むかじゃなくて、どこで飲むかが重要なんだけれどね」と言ってくれたので安心した。よかった。僕もそう思っていた。

珈琲道とでも言うのか、コーヒーにはやれ豆の種類はどうだとか、やれ淹れ方はこうだとか、そんな能書きが付いて回ることが多い。でも僕みたいな特別コーヒー好きでもない人からすると、そんなアテンドは大して意味をなさなくて、それよりもどんな環境で飲むかの方が重要だったりする。インスタントコーヒーでも自分のソファで好きな音楽を聴きながら飲むコーヒーは美味しいし、逆にいくら美味しいコーヒーでもクラクションの鳴り響く空気の悪い雑踏で飲んでいては美味しく思えない。「高級な豆」よりも「座り心地の良いソファ」の方がコーヒーにとっては重要だと思っている。

きっと何事もそうで、「道」が極まって芸術に近づけば近づくほど、重要なことを見失ってしまうもの。

ちょうど最近、音楽についても似たようなことを考えていたんだった。

 

 

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「すべての音楽(歌)はラブレター理論」という持論がある。

これは音楽の様式ではなくて、評価の仕方についての話。音楽の評価基準は沢山あるけれど、それはラブレターと同じなんじゃないか、という持論。

そもそも歌の起源を遡れば、神様への讃歌だったり好きな人への求愛の歌なわけだから、音楽はつまるところラブレターなんだと言っても、あながち間違いではないかもしれない。そう捉えた場合、音楽を評価するときに重要なことって何なんだろうかと考えると、それはラブレターと比較してみると明確になるのかな、なんて思っている。

音楽の評価は殆どのユーザーからの場合、良い曲だとか、良いメロディだとか、歌がうまい、演奏がうまい、なんて評価基準を設けられるけれど、「道」が極まったが故に、クリエイター達はリスナーの想像をはるかに超えるような評価基準に拘りを見せることがある。

例えば、最終マスタリングに何日も費やすなんてことはザラだし、音が変わるといった理由で電圧や湿度の違う外国で録音したり、少しでも機材の音を良くするためにマイ電柱を立てたりなんてこともある。僕個人としてはそういう拘りが好きだし重要だとも思うけれど、一方でそれは一部の音楽好きにとって重要なだけで、多くのリスナーにはあまり影響がないんじゃないかなとも思ってしまう。

そこでラブレター比較。仮にそんなクリエイターの拘りをラブレターで表現するならば、音楽でいう「音質が良い」とか「良い楽器を使っている」とかは、ラブレターで言うところの「紙質が良い」とか「使っている万年筆が高級」だとかいうレベルの話に過ぎないのかもしれない。これってラブレターの受取手からすると、結構どうでもいいことで、もっと言ってしまえば、ラブレターにおいては字の上手い下手も関係がないし、文章の良し悪しだってそこまで影響ないかもしれない。重要なのはそこじゃない。

ラブレターで一番重要なのは、誰が誰にどんな気持ちで書いたかだ。それが重要。どんなに綺麗な字で書かれたラブレターだろうと、好きでもない人がいい加減な気持ちで書いた文章なら何の価値もない。逆に言えば、好きな人が書いてくれたラブレターなら紙質の良し悪しなんて関係がないし、文章の上手い下手も関係がないどころか、一言「好きです」と書いてあればそれだけで十分かもしれない。

音楽だって実はそういうものなんじゃないかと思う。だからこそ音楽には「ポップアイコン」や「ロックスター」や「アイドル」が存在する。彼ら、彼女らが歌う歌が支持を得る。曲が良いとか歌が上手いとかは実際のところ(そこまで)関係がない。結局、誰が歌っているかが重要。

 

実は、これは僕自身が趣味で音楽を作っている時に「戒め」としていることでもある。部屋で一人PCに向かっていると、サチュレーターで倍音増やして‥とか、-3dB以上リダクションを起こさないようにして‥とか、どうでも良いような事(でも本当はどうでもよくない事)ばかり考えてしまうから、そんな時は頭の片隅でもう一人の自分が囁いてくれる。そんな事は重要じゃないんだよ、あなたが自分の音を出していることが重要なんだよ、と。

まぁ、自分はプロじゃないから聴き手の事なんて一切考えずに、自分の中の「音楽道」を極めてしまえば良いのかもしれないけれど、それだと終わりの見えない作業になってしまうから。

先にも書いたように「道」を極めようとすると芸術になってしまう。娯楽には答えがあるけれど、芸術には答えがない。つまり「道」を極める事は、答えのない迷路に入る事なのかもしれない。そうすると作り手と聴き手の剥離も生まれてしまう。そうやって作られたラブレターの需要なんて限られてるし、ラブレターマニア以外からしたら魅力的じゃない。きっと愛だって伝わらないと思う。

 

 

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そんな僕にとって、コーヒーで一番重要なことは「素敵な音楽」だ。

今日のBGMはCurtis Mayfieldの「So In Love」

最高のラブレター


Curtis Mayfield - So In Love

 

去年のふりかえり 映画・音楽・本

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明けましておめでとうございます

 

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年が明ける前に2018年に聴いた音楽や観た映画、読んだ本などの振り返りをしようと思っていたのに、気がついたら2019年になっていた。たしか去年もそうだった。毎年同じことを言っている気がする。

2018年のうちにやろうと思っていたことが何も出来ていない。

そういう大人は大成しない。

 

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今年は少し時間ができたこともあって、例年になく映画を観たように思う。映画館にも足を運んだし、NetflixWOWOWオンデマンドを利用してPCやスマートフォンでも映画を見るようになった。そんな中、去年最後に見た作品は塚本晋也監督の時代劇『斬、』だった。

映画「斬、」オフィシャルサイト。塚本晋也監督作品 池松壮亮 蒼井優 出演 2018年11月24日(土)よりユーロスペースほか全国公開!


映画『斬、』特報

塚本晋也監督の過去作を何一つ見ていない上に、この映画の情報を何も入れずに映画館で見たのだけれど、はっきり言ってしまうと「よくわからない」というのが正直な感想だった。鬼気迫る殺陣シーンや臨場感のある音響、明瞭なストーリーが80分という尺に収まっていて飽きることなく観れたものの、それでも意味深な演出や台詞が多すぎて、なんだか「よくわからない」という印象。

ただ、鑑賞後に一緒に映画を観た知人と喫茶店で感想を話し合ったのだけど、そこで知人から塚本晋也監督の前作が戦争映画だったと聞いて、あーなるほど、と腑に落ちるところがあった。そうかそうか、だからあの演出、台詞なのか、と。あれ、なんだか全てが繋がってくるぞ。

なるほど、これは現代日本の置かれている状況を投影している時代劇なのか。憲法9条の改正や沖縄の基地問題塚本晋也アメリカのメタファーだし、蒼井優の感情の変化は国民感情そのもの。だからこそ、ゴロツキとの立ち回りで蒼井優が犯されているのは意味があるし、池松壮亮はあんなに苦しそうに2回も自慰をしたのか(どんな映画だ)。武力を持つことの意味を考えさせられるし、そこから生まれる負の連鎖に胸を締め付けられる。全てのセリフが確かな意味を持つ。なるほど、そういうことだったのか。

と、合っているかも分からない答え合わせをしているうちに、この映画はとんでもない名作なんじゃないかと思えてきた。「よくわからない」なんてことは全くなくて、こんな深い内容が綺麗に80分に収まっているだなんて、なんたるテクニックだ。

 

と、感動しているその一方で、鑑賞後に喫茶店で小一時間話し込まなければ良さが分からない映画というのはどうなのかとも思う。もちろんそれは自分の勘の鈍さがゆえに喫茶店での小一時間を必要としているだけであって、普通なら観ながらに理解することなのかもしれない。でもメタフォリカルな部分を意識しすぎると、映画のストーリーそのものに入り込めない気もするし、その辺りの匙加減ってすごく微妙だ。んー、映画って難しい。

 

なんて色々考えたけれど、この映画が素晴らしいのは間違いないし、何よりこれだけ考えさせられるんだから、それだけでも観る価値はあったと思う。映画に限らず考えることを求めてくる作品って魅力的だ。

 

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今年、音楽で個人的に刺さったのはNYにあるBig Crown Recordから出た作品群。知らなかったレーベルだけれど、ここから出ている7インチがどれもツボだった。まぁ7インチと言っても実際はApple Musicで聴いているんだけれど。


Bobby Oroza - Should I Take You Home - BC064-45 - Side B


Bobby Oroza - This Love Pt 1 - BC064-45 - Side A


Holy Hive - Blue Light - BC077-45 - Side B


Thee Lakesiders - Parachute


El Michels Affair feat. Lee Fields - Never Be Another You (Reggae Remix) - BC053-45 - Side A

どれもこれもゲキ渋。今年はBig Crown Recordの作品でプレイリストを作って、それをエンドレスで流してる時間が多かった。それ以外だとMr Twin Sisterの新譜もよく聴いたな。

 

邦楽はキリンジくるりサニーデイ・サービスなんかの昔から好きだったミュージシャンの新譜が相も変わらず良かった。でもそれ以外にも素敵な音楽が沢山。

 


冬にわかれて - なんにもいらない

今年一番のお気に入りアルバム。素敵。

 


折坂悠太 - さびしさ (Official Music Video)

いい曲。

 


カネコアヤノ - 祝日

ラメが目に入らないか心配になる。

 

あと新譜じゃないけれど、今年よく聴いたアルバムははNed Dohenyの「Ned Doheny」(1973)


Postcards From Hollywood - Ned Doheny

日本だと76年発表の『Hard Candy』がAORの名作として有名だけれど、その3年前に発表された1stアルバムがSSWモノとしてすごく好みだった。CSN&Y的なコーラスワークがダサかっこいいA面もさることながら、B面「Postcards from Hollywood」からのシンプルで物悲しい曲達は名曲揃い。特に「Postcards from Hollywood」は本当に名曲だと思う。

 

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本は正直あんまり読んでないのだけれど、記憶に残っているのは

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)
 

 柴田元幸さんが翻訳したポールオースターも何冊か読んだし、過去のエッセイ(「ケンブリッジ・サーカス」)も読んだから柴田さんの文章にはたくさん触れていた気がする。柴田さんが編集している雑誌「MONKEY」のバックナンバーも実は全部揃えてる。

日記

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ただの日記

 

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起床。窓から差し込んだ光がベッドの足先に。暖かい。昨晩降った雨のせいか、窓の外がキラキラしている。

 

支度をして家を出る。行きつけの美容院に。

かれこれ10年くらい担当してもらっている美容師さんと「幸福」について話をする。人の幸福度は年収800万までなら年収に比例して上がるけれど、それ以上になると変化しないんだって、だから大金持ちには別に成りたくないよね、なんて話。良かった。悲しいかな、自分はまだまだ幸福になる可能性がある。随分と。

 

午後、高校からの知り合いがカフェをオープンしたので、その店にお茶をしに行く。

大家さんの怠慢で未だに電話がひけない、そのせいで店はオープンしているのに電話番号が記載されたチラシを配布できない、なんて愚痴をきく。そっか、それは大変ね。練習中のラテアートをいただいてお腹がタプタプに。バジルチキンのサンドウィッチが美味しかった。その店で焙煎してもらった珈琲豆を買って店を後にする。12月にしては随分と暖かい。

 

帰宅。部屋でThe Friends of Distinctionの1stを聴きながらまったりネットサーフィン。

軽減税率が導入されて食料品など「生活に最低限必要なもの」の税率が8%のままになった時、鏡餅の上のミカンはどっちなんだろう、清め塩は?みたいなどうでもいい事ばかり考える。もうすぐ正月だなぁ。

 

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Grazin / Higly Distinct

Grazin / Higly Distinct

 

 


Friends Of Distinction - Grazing In The Grass

ソウルというより1969年という時代的にもソフトロック色が強くてダサかっこいい。ケニーランキンやローラニーロのカバーあり。

 

“本場”への違和感 ジャパナイズドカレーの未来

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一、二年前からカレー屋に行った折にはGoogleマップ上でその店にチェックを入れるという作業をしている。別に評価するとかではなく、ただ自分で行ったことがわかるようにチェックするだけ。近所の店だと何度も通っているから総数的には多くはないけれど、それでも30軒近くのカレー屋がチェックされている。カレー通の人には遠く及ばないにしても、一般の平均よりは随分とカレー屋に足を運んでいる方だと思う。

 

そんな自分が行くカレー屋のほとんどは店員が外国人のナンで食べるタイプのカレー屋だ。だいたいネパール人が働いていて、店内にはチョモランマの写真なんかが飾ってあって、本日のカレーとAセットBセットCセットがあって、モチモチの大きいナン(僕はそれを食べるためにカレー屋に行っているようなものだ)が出てくるお店。今、全国どこの都市でも雨後の筍のごとく増えている“本場”のカレー屋さんだ。そのことを人に話すと「あぁ本格的なタイプのカレーだ、本場のやつね」なんて言われるから「そうそう本場やつ」と合わせて返答をするのだけれど、内心その「本場」という言葉に引っかかっている。

 

というのも、あまり知られていないことだけれど、実はインド人ってあまりナンを食べない。日本人的にはナン=本場というイメージが付いているけれど、本場インドにおいてナンは高級料理店で出てくる程度のもので、一般家庭で食べることは殆どない。南インドに至ってはナンを食べる文化がそもそもない。つまりインドカレーのお店でナンが出てくるのは本格的なんかでは全然なくて、あくまでもジャパナイズされたカレーの食べ方ってことになる。ラッシーも日本の店ではどこもヨーグルトを薄めたような飲みやすいものにジャパナイズされているけれど、本場のラッシーはとても不味いらしい。もっと言ってしまえば、本場インドに「カレー」という言葉はなくて、外国人がインドの煮込み料理を総じて「カレー」と英名で呼んでいるにすぎない。呼称のことまで踏まえると、僕たちの食べている「本場のカレー」って何の事なんだか本当によくわからない。

さらに言うと、日本にあるカレーの主流である「欧風カレー」もまた無茶苦茶な代物だ。そもそもヨーロッパに欧風カレーは存在しない。あくまでも日本独自のカレー。インドの煮込み料理を「カレー」と呼んだイギリス人がブリットナイズ(そんな言い方は絶対にしない)してブリティッシュカレーを作り出して、それが日本に伝わって、日本独自の進化を遂げたものがカレーライス、欧風カレーだ。

だからインドカレーも欧風カレーも全部ひっくるめてジャパナイズドカレーと言える。本場なんて存在しないし、そもそもインドカレーと言ったところで働いてる人の多くはネパール人だ。僕の住む名古屋は餡子やモーニングの文化があるけれど、以前行ったインドカレー屋さんではモーニングで餡子ナン(!)を提供するという、とんでもなくナゴヤナイズドしたカレー屋さんだった。もう本場がブレブレ。でもそれでいいと思う。

 

越境すると全てはナイズドする。音楽だってそうで、海外の音を真似たつもりが結果として日本のオリジナルになる、なんてことは当たり前の話。はっぴいえんどフリッパーズギターもそうだった。そういうものは新しくてオリジナリティがあって面白い。

だから、いわゆる“本場のカレー屋”が好きな僕はいっそのこと“本場”の冠を捨ててしまえば良いと思ってる。そうすることでナンで食べるカレーもラーメンやカレーライスのような国民食になれるんじゃないかと。現状でこそ“本場”は宣伝文句になるけれど、これだけインドカレー屋さんが増えてしまうと、数年後には“本場”であることに魅力は無くなって、いかにジャパナイズドできているかが生き残りのカギになるんじゃないかと思う。

これ、なかなか的を得ている考えな気がする。だから頑張れカレー屋さん。目指せ国民食。そうして、いつかコンビニで焼きたてのナンが購入できる日が来ますように!

自分はナンが好きだからたまにカレー屋さんへ行ってナンだけテイクアウトすることがあるんだけれど、あれ、ちょっと気まずいんだよな。コンビニで買えたらすごく助かるのにっていつも思う。

 

個人的ビートルズ史

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わかる人にはわかる道

 

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「音楽の好みは14歳の時に聴いた音楽で形成される」なんて話をよく耳にする。

なるほどなと感心してしまうのは、自分にとってのそれがビートルズだからだ。14歳、中学2年生の時に姉から借りたビートルズの『リボルバー』。あのアルバムを聴いて以来、今日に至るまで僕にとってビートルズは特別な存在であり続けているし、ポール・マッカートニーが来日したとなれば会場に足を運んで一緒に「ヘイ・ジュード」を合唱する。ナーナーナーナナナーナー。

歌いながら泣きそうになってる自分は19年前のビートルズを聴き始めたあの頃と何ら変わってないんだな、と毎度のように思う。

 

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1999年 姉から『リボルバー』を借りたことを皮切りにビートルズ、そして60年代の音楽にハマっていく。当時、奥田民生の手がけるPUFFYの楽曲がビートルズオマージュ全開だったり、映画では『バッファロー’66 』が流行っていたりして、思い返せば世間的に60年代リバイバルが来ていたのかもしれない。

 

2000年 英語の先生がビートルズ好きで、授業の教材としてビートルズの歌詞を扱う。他にもカーペンターズやマイケルジャクソンのドキュメンタリーを観せたりする先生で、今になって思えば風変わりな人だった。一度、ビートルズ及びメンバーのソロ曲のタイトルを3×3のマス目に生徒に書かせて、その表を使ってビンゴをするという、冷静に考えて全く英語の勉強にならない授業もあった。あれ、何だったんだろう。

 

2001年 ジョージ・ハリスンが亡くなる。

 

2002年 ポールが来日するも高2の財力では東京まで行けず断念。しかし、この年にベースを購入(ヘフナーではない)、同時に『ホワイトアルバム』のバンドスコアを買い、家でひとりポールのプレイをマネる。このとき選んだスコアが『ホワイトアルバム』だった事の賢明さに我ながら感心する。

 

2003年 クラスメイトとお遊びで組んだバンドで、まず何かカバーしようとなってビートルズの「ヘルプ!」をカバーする。ビートルズをほとんど知らない子もいたけれど、この曲は某テレビ番組のテーマ曲になっていたから認知度が高かった。

 

2004年 僕がビートルズ好きだと知った女の子に、当時話題になっていた『Let It Be... Naked』を貸して欲しいと頼まれる。しかし、貸しはするものの、そもそもオリジナルの『Let It Be』を聴いたことがないにも関わらず、ネイキッドを聴きたがるそのミーハーな感じにとても不快感を抱く。という面倒なビートルズ好き&乙女心の分からない男子高生感が炸裂する。

 

2008年 入社した会社の当時の上司がビートルズマニアで、しかもコピーバンドをやってベースを弾いている人だったので意気投合。入社したばかりなのに仕事の話は殆どした記憶がない。

 

2013年 ポールが11年ぶりの来日。東京ドームへ観に行く。感動。言葉にすると陳腐になってしまうけれど、本当に「ありがとう」という気持ちが心から溢れる。あなた(たち)が50年近く前に作り上げた音楽が今の僕を形成している。そのことに感謝の念でいっぱいになる。

 

2017年 ポール来日。頻繁に来るからレア感ないなぁと思いつつ、またもや東京ドームへ。いつでも同じことを思う。ありがとう。

 

同年 初めてのイギリス旅行。リヴァプールには行かなかったけれど、ロンドン市内の聖地を巡礼する。アップル社のあったビルやジョンとヨーコが初めて出会ったギャラリー、映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』のオープニングでジョージとリンゴが転んだ路地などを観て回る。もちろんアビーロードの横断歩道にも。知らない外国人にスマートフォン渡して写真を撮ってもらう事に若干の不安はあったけれど、実際現地に行ってみると写真を撮ってもらいたい人ばかりで安心。見ず知らずのカップルとお互いに写真を撮り合う。

 

同年 ビートルズが使用していたことで有名なギター、Epiphone Casino(別に高くはない)を購入。

 

2018年 ポールまた来日。昨年も観たし今回はいいかな、なんて思いつつも結局観にいく。本当にありがとうポール。76歳でアンコールまで水分すら取らずに歌い続けるあなたがもはや怖いよ。元気で何より。

 

 

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それにしても今回のライブで隣に席に座ってた女性(40歳くらい?)が面白い人だった。開演前から「楽しみですねぇ」とフランクに話しかけてきたから、拒む理由もないので合わせてお喋りをしていたんだけれど、そのフランクさが本当に強烈で、ライブが始まっても「わー次ブラッグバードですよー!」みたいな感じで話しかけて来るのは当然、やけにボディタッチをしてくる。さらにライブ中、自撮り写真の中に何故か僕を入れ込む。そして極め付けは僕の肩に肘を乗せながらライブ鑑賞するという、なかなかの距離感を持った人だった。周りから見たらカップルだと思われたかもしれないけれど、違う、僕はあの人の名前すら知らない。

男性として女性から触られるのは別に悪い気しないけれど、でもこれが男女逆だったら通報案件だよなぁ。面白い人だった。

大麻の話 ②

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ペルシャ猫を誰も知らない』というイランの音楽映画が好きだ。

西洋文化の規制が厳しいイランで、政府の監視を逃れながら音楽活動を続ける若者たちを描いた反体制的な青春映画。正直、この映画を観るまでイランでこんなにもポップミュージックが規制されてるなんて知らなかった。テヘランでは音源製作やライブはもちろん、練習してるだけでも通報されて警察が押しかけてくるんだからたまったもんじゃない。現代の日本で暮らす僕たちにはポップミュージックが規制されてる世の中なんて、ちょっと想像が出来ない。

とはいえ、思い返してみれば日本でも学校側が生徒に対してロックコンサートに行ってはダメだと指導していた過去がある。ちょうど今日、テレビでポール・マッカートニーが来日したニュースが流れていたけれど、彼がビートルズとして初めて来日した1966年当時ロックは不良の音楽とされていて、学校がビートルズのライブに行かないよう生徒に促していたのは有名な話。国による規制じゃないにしても、今になって考えたらあんなに愛や平和をポップに歌ってるビートルズを不良の音楽だとみなすなんて冗談にしか思えない。でも当時の大人は冗談でも嫌がらせでもなく、むしろ生徒への愛情からビートルズを否定していた。ロックミュージック=不良の音楽だと本気で信じていた。それが今では音楽の教科書に載ってるんだから、社会や人の持つ善悪の感覚って根拠がなくて浮動的なんだなとつくづく思う。

そういえばポールが80年にウィングスとして来日したときには大麻所持で逮捕されてたな。

 

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そう、それで大麻の話。

前回の記事(大麻の話 ① - ハナムグリのように)で大麻規制の歴史を書いてたのは、こんな歴史だから大麻解禁しようぜ、って話ではなくて、単純に大麻の歴史や現状に対する好奇心と、大麻を盲目的に批判する人への違和感からという所が大きい。

 

よく大麻解禁が議論されるときに「大麻が無害だろうと、わざわざ気持ち良くなる薬物を解禁する必要がない」と言う人がいて、まぁそういう人はアルコールやタバコなんかも嗜まない厳格な人なんだろうけれど、僕はわりと気持ち良くなるものは必要だと考えてしまうタイプだ。僕自身もアルコールやタバコを嗜まないけれど、人体に害がないのなら大麻の方がありがたいし、気持ち良くなるものはなるべくあった方がいい気がする。ロックミュージックとか。みんなそうだと思う。みんなそれに救われてるんじゃないかと思う。

 

ただ、染み付いた善悪の感覚がそれを許さないというのもよく理解できる。

 

例えば、僕の住んでいる地域では昔からゴミの分別がしっかり行われていたのだけれど、ある時から「コンセントの付いていない小型の電気製品」が「燃えるゴミ」に分別されるようになった。電卓とかの小型家電が燃えるゴミ。焼却施設の技術的な向上といった明確な理由があるとはいえ、染み付いた善悪の感覚でいうと電卓を燃えるゴミに捨てるのはやっぱり「悪」だ。電卓は絶対不燃ゴミだろと、当時はすごく違和感を感じた記憶がある。染み付いた善悪の感覚を覆すのはやっぱり抵抗がある。(まぁ今となっては何も気にせず燃えるゴミに入れているんだから、人の持つ善悪の感覚ってのは本当に危うい)

 

それで、善か悪かで言うのなら大麻に関する世間の認識は現状のところ「悪」だ。今後どうなるかわからないにしても今は「悪」だから大麻解禁の議論も結局「とにかく法律で禁止されるんだからダメなものはダメ」という結論に至ることが多いように思う。でもこれって実は一番怖いことなんじゃないか。

 

法律で禁止されているから吸っちゃダメ、というのはそれは当然。でも法律で規制されているから悪だと、そこで話が終わってしまう人は民主主義の外側にいる気がしてしまう。なぜなら法律は人が作ったものだから。決して天からのお告げじゃない。国民によって民主的に選ばれた議員が法を定める。この事に盲目的になって、法律だから絶対的に正しいと右に倣えをしてしまうのは民主主義を否定している気になってしまう。それは考えすぎなんだろうか。んー難しいところ。でも議論はしていかなきゃダメだと思う。それが民主主義。大麻が民主的にOKかどうかではなくて、議論をする事自体が民主的。

 

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大麻を通してアメリカの近代史から、リアルタイムで抱えているオピオイド問題、そして善悪の危うさや民主主義までも考えることができるんだから、大麻って本当に興味深い題材だ。これからも大麻に対する世間の動向を注意しなきゃいけない。

 

そういえばポール・マッカートニーってベジタリアンだった。きっと彼の中では肉よりも大麻の方が倫理的にOKに違いない。流石にこれは僕も共感できないな。大麻よりもジューシーな肉の方が絶対に良い。

(とか言いつつ来年には僕もベジタリアンになっているかもしれない。人の価値観なんて本当に危ういんだから)

 

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映画『ペルシャ猫を誰も知らない』予告編

音楽好きには間違いなく刺さる映画