ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

雑記 とりとめもなく(秋についてのいくつか)

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季節の始まりはいつだって突然なのに、終わるときは何故だか曖昧。

 

 

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深夜、遠くを走る電車の走行音がいつになく明瞭に聞こえてくる。

秋になって昼間と夜の温度差が大きくなると、上空に空気の層ができ、それに遮られた音は空へ抜ける事が出来なくなる。逃げ場を失った電車の走行音は、遠くの僕の住む家までガタンゴトンとやって来る。今晩は随分と気温が下がるらしい。電車の音がクリアに聞こえるようになって、あぁ秋になったんだなと気がづく。空の反響音に秋の訪れを教えてもらう。

 

 

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秋がきて金木犀の香りが‥、なんてお洒落なセリフを言えたらいいけれど、恥ずかしい事にここ数日の間、金木犀の香りを思い出せないでいる。甘い香りだってことはなんとなく覚えているのに、そのディティールは思い出せない。もちろん知らない訳じゃない。嗅いだら、あーこれだ!となるんだろうけれど、いざ思い出そうとしてもギリギリのところで出てこない。銀杏の匂いならすぐにでも思い出せるのに。

この、嗅げば分かるけれど思い出せないという感覚は、漢字を読めるけれど書くことができない感覚になんとなく似てる。ちなみに僕の中で読めるけれどギリギリ書けない漢字の筆頭は正に「金木犀」だ。金、木、は書けるけれど「犀」ってなんだっけ?ギリギリで書けない。普段はまず使わない漢字だし、動物のサイ(犀)だよと言われてもピンとこない。犀を漢字で書くことなんてまずない。「銀杏」なら迷わず書くことが出来るのになぁ。これもまた。

 

なんて思っているうちに「金木犀」と「銀杏」の対比構造に気がつく。

「香気」と「臭気」、「金」と「銀」、「思い出せない漢字」と「思い出せる漢字」、「思い出せない匂い」と「思い出せる臭い」

って、今年一番どうでもいい気付きだ。秋になって今年一番を更新。

 

それにしても、銀杏が「銀」なのは何故なんだろう。ネットで調べてみると、銀杏の実が銀白色であるのが由来らしいけれど、どうも納得がいかない。だって、イチョウの葉は金木犀の花とは比べ物にならないくらい圧倒的な鮮やかさで秋の街を金色に染めているじゃないか。

 

 

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秋になって、カボチャが食べたくなって、南瓜プリンと南瓜のチーズケーキを作った。

お菓子を作る度に思うけれど、このお菓子作りってやつは本当に難しい。少しでもミスを犯すと形すらまともに整わない。持論ではあるけれど、お菓子作りが得意=人として優秀だと言ってもあながち間違いではないはずだ。それくらいお菓子作りは人の総合的な能力が問われる作業だと思う。

例えば、レシピ通りにおいしく仕上げるには、材料を正しく調達し、分量を正しく計測する正確性が必要になる。そしてそれらの分量を意図して変えた場合には、他の食材の分量や焼き時間も的確に変更できる想像力や柔軟性を持っていなくてはならない。さらに、作業を無駄なく効率良く進めるためには正しいプライオリティの判断ができなければならないし、洗い物をしてキッチンを綺麗にするまでを抜かりなく行うには、仕事をやり遂げる責任感が必要だ。そして何より、お菓子を作って人に振舞おうと思うには、それなりのサービス精神や優しさが無いと成り立たない。人間力が試される作業だと言っていい。冗談で無く、企業の人事担当は採用試験に「お菓子作り」を加えても良いのではないかと思う。きっと優秀な人材を選別できるはずだ。

ちなみに言っておくと(あえて言う必要はないけれど、誤解されないように伝えておくと)自分はお菓子作りがとても下手だ。今回作ったチーズケーキは羊羮のような歯ごたえになった。何を間違えたんだろう。

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「春夏に恋をしたくなるのは若い人で、大人になると秋冬に恋をしたくなる」

というロマンチックな文章がスマートフォンのメモ機能に書かれていて、きっとこの言葉を思いついてメモした背景には、この事実には生物学的な理由があるはずだから後で調べてみよう、なんて気持ちがあったはずなんだけれど、今の気分ではそんな事どうでもいい。この言葉の持つ、全身痒くなりそうなキザっぽい雰囲気が面白い。生物学的な理由なんていらない。理屈はロマンチシズムを台無しにする。

 

 

変わる数字 変わらない数字

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終戦記念日が近づくにつれて、テレビで「戦後74年」の文字を見かけることが多くなった。この「74」という数字に対して、「もう」と思う人もいれば「まだ」と思う人もそれぞれいるだろうけれど、自分は毎年のように、もうそんなに経つのかぁ、なんて驚いている。

もちろん自分が生まれたのは戦後も戦後、大戦の面影なんて一切残っていない1985年。だから、物心ついた時から戦争は随分と昔の出来事という認識でいるけれど、それでも毎年のように戦後の年数に驚くのは、自分の中で戦争は「50年前の出来事」という認識をしてしまっているからなんだと思う。

 

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終戦50周年は1995年。僕は10歳だった。同じ年の上半期には阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件といったセンセーショナルな出来事があって、それまで半径数メートルの世界でしか生きていなかった子供の僕にも、明確に「外の世界」が感じられる年だった。家族や友達の外にも無限のように世界は広がっていて、現在進行形で様々な事件が起こっている。そんな当たり前のことを理解した1995年。

テレビでは連日のように震災やオウム関連のニュースが流れていて、10歳の僕にはその全てがインパクトの強いものだった。テレビを通して社会を知ることで、自分が少し大人になった気がした。そして夏になると終戦50周年を記念した特番が流れ始めて、恥ずかしながらその歳になって初めて「戦争」というものを理解した。いろいろな番組で「終戦50周年」の画面に文字が踊っていたこともあって「50」という数字は強く脳裏に焼き付いている。この時期に僕は「戦争」=「50年前の出来事」という認識をしてしまった。

 

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子供の頃に覚えた数字というのは、たとえそれがアップデートを必要とする数字だとしても、意外なほどにそのまま頭に残っている。

僕にとっては「終戦50年」がその顕著な例だし、他には「世界人口」なんかもアップデートが追いついていない数字の一つだ。

僕が子供の頃に覚えた世界人口は60億人だった。なのに、数年前に70億人を超えたと知って驚いたことがあって、さらに今では77億人に膨らんでいるという。この20年間で17億人も増えたのか?いくらなんでも増えすぎだ。少子化高齢化が叫ばれている日本の人口だって、昔は「約1億人」で覚えていたのに、現在は1億2631万人もいて「一億総◯◯時代」というテンプレートが使いづらくなっている。数字はどんどん変わっていくのに、頭の中でアップデートが全然追いついていない。

その他にも、例えば歴史年号なんかも変わっているものがあるらしい。僕が子供の頃、大化の改新が起きたのは「無事故(645)で良かった大化の改新」と語呂合わせで覚えていたから、もちろん645年。ところが、今の教科書で大化の改新は646年と表記されているそうだ。歴史の教科書まで変化していく。

知らないうちに数字はどんどん変わっていく。

 

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その一方で、統計や歴史に比べると理数系の数字は変わることがないから安心できる。子供の頃に覚えた、理科の教科書に載っていたような数字は今でも現役だ。

例えば、音速は秒速340mで、光速は秒速30万km、みたいな数字。光は太陽まで8分で到達して、一秒間で地球を7週半回ることが出来るといった数値は、今も昔も変わらない。そして秒速30万kmで地球を7週半回れるということは、地球の外周は4万kmということで、この距離も変わらない。

ちなみに外周が4万kmぴったりなのは、そもそもメートルの定義が「赤道から北極点までの長さの10000万分の1」と定められているからで、つまり「地球の外周が4万キロ」なのではなくて「4万キロが地球の外周を指している」ことになる、なんていう、理科の教科書の隅っこに書いてあったような(そしてテストには出なかった)数字は、今も昔も変わることがない。

 

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と、思っていたけれど、念のためグーグルで検索してみて驚いた。

 

地球の外周はぴったり4万kmだと、その理由も含めて覚えていたのに、実際のところ地球は完全な球体ではなく楕円になっているから正確には40,075kmなんだそうだ。さらに光速は秒速30万kmよりもちょっと遅いらしいし、太陽までは正確には8分20秒かかるらしい。なるほど。小さい頃に覚えた数字はそもそも正確じゃないから、大人になったら結局アップデートしなきゃいけないのか。

思えば、「ゆとり教育」を受けた世代は円周率を「3」から「3.14」 にアップデートしなきゃいけない訳だし、理科や数学の教科書にもアップデートが必要な数字は溢れているのか。

 

結局、世の中は変わる数字ばかりなのかもしれない。こっちは自分の年齢をアップデートしていくだけで精一杯なのに、気を許しているうちに周りの数字が全て移り変わっていく。

まぁ、生きるって、きっとそういうことなんだろうけど。

こんな隙にも、世界人口は増え続けているはずだし、僕の体の中だって、細胞の数が増えたり減ったりを繰り返しているに違いない。全ての数字は移り変わる。

 

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全ては移り変わっていく。そんなタイトルが付いたジョージハリスンの曲がある。

1970年に発表されたビートルズ解散後初のソロアルバムにして、ロック史に残る大名盤『All Things Must Pass』のタイトルトラックだ。この曲の発表は1970年だけれど、僕はその前年の1969年に録音されたdemoバージョンが大好きで、今でもよく聴いている。

それにしても、1969年って随分と昔だなと思う。半世紀も前だ。僕の中でビートルズは30年前に解散したバンドという認識だったのに、気がついたら50年前のバンドになっている。これも自分の中でアップデートできていない数字の一つ。

 


The Beatles - All Things Must Pass (assembled from rehearsals

ジョージの弾き語りバージョンが貼り付けられなかった

 

 

17日 祇園祭り つぶやき

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午前 3:35

真夜中、激しい雷雨で目を覚ます。

雷光と雷鳴のラグから、雷が近くで発生しているのがわかる。スマホで検索してみると、市の南の方では避難警報も出ているらしい。ベッドから起きて窓を閉める。ベランダを叩く雨粒の高音が消えて、室内にはくぐもった低い雨音だけが残される。ゴーー。DJがフィルターのツマミを回して高音をカットしたみたいだな、なんて思いながらベッドに倒れこむ。

今年もまた、夏がやってきた。

 

 

午前 8:20

駅のホームで、いつ到着するかもわからない電車を待つ。昨晩降った大雨の影響で、大幅な遅延が起きているとのこと。次の発車を知らせる電光掲示板がころころと変化していくのが、駅職員たちの混乱を物語っている。この時間帯の遅延は影響が大きい。とはいえ、ホームで電車を待つ人たちは大声で不満を訴えることもなく、苛立つ様子は一切見せない。何事も無いかのようにスマホをいじっていて、みんな大人だなと思う。まぁ、そういう自分も苛立ってはいないけれど。

この平常心を維持する感覚って日本人っぽさなんだろうか。大らかなのか無関心なのか判然としないこの感じ、嫌いじゃないのだけれど、ことに民主政治においては悪い方向に作用しているのかもしれない。今週末は選挙だ。行かなきゃ。

 

 

午後 12:20

京都までは在来線で2時間13分。別に急いでいないから新幹線代をケチって在来線で行こうと考えたのが間違いだった。祇園祭の山鉾巡業は13時頃までだから観る時間は十分あると思っていたのに、電車が遅延してしまい京都までなんと4時間。現在12時半。なんてこった。新幹線で来れば良かったなぁ、なんて思ってもそれは後の祭り。そう、文字通りの「後の祭り」。

 

 

午後 2:17

暑い。昨日の時点での天気予報は曇りで、50%の確率で雨も降ると言っていたのに、ふたを開けてみればこの快晴だ。まぁ、暑いけれど雨に比べれば全然いい。むしろ有り難いし、何より目出度い。なんせ今日は祭りだ。

祇園祭のクライマックスである山鉾巡業が行われる日。電車の遅延であまり観られないかもと心配していたけれど、それは全くの杞憂だった。13時頃までに規定ルートを巡業した後も、山鉾はそれぞれの蔵へ戻る必要があるから、その道中に観る時間は十分あって、しかも大通りではなく路地を通るので、近くで見ることができ大迫力。普段、尾張地方の祭りで数台の山車を見ている自分には、祇園祭の山鉾はその数(前祭で23基!)、大きさ(鉾は地上25m!)ともに段違いで、まるで『アベンジャーズ』を観ている感覚だった。ワクワクが止まらない。

 

 

午後 2:42

それにしても、どうして山や鉾に掛けてあるタペストリーは「砂漠を歩くラクダ」や「モスクをバックに飛翔するフクロウ」というように、異国をモチーフにしたものが多いんだろう。今度、調べてみよう。

 

 

午後 6:12

八坂神社で神幸祭神輿渡御を観る。祇園の交差点が人で埋め尽くされる。

祭りを観ているとつくづく「曳く」「担ぐ」が重要な意味を持っているんだと感じる。その事についてずっと考えていて、忘れないようにとスマホに書いたメモが「東ヨーロッパと神道の類似性」だった。どういう事だ?自分でも意味がわからない。

 

 

午後 8:45

お腹が痛くなって駅のトイレへ。トイレでもスピーカーからはずっと祭囃子が流れてる。「祭の後の静けさ」なんてこれっぽっちもない。気分が高揚するぜ。

 

訛りについての話

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先日、知り合いとご飯を食べているときのこと、その知り合いが高校の恩師の話をし始めた途端、急に地元の訛りが出てきたので、驚いて思わず笑ってしまった。

「あっ、急に三重のイントネーションになったね」「えっほんと?気がつかなかった」「地元の話をすると訛っちゃうよねー、あははー」

まるで思い出と一緒に言葉もタイムスリップしてるみたいで面白かったのだけれど、そのとき自分で使った「訛り」という言葉に自分自身で何処か違和感を感じてしまう。「訛り」ってなんだろう。

実は、少し前に趣味で方言や訛りについて調べたことがあって、それ以来「訛り」という言葉がどうも腑に落ちないでいた。

 

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「言」に「化」と書いて「訛」。言葉が化けると書く。その漢字単体で「いつわる」や「あやまる」という意味があることを踏まえると「訛り」という言葉には、「正しいA」が訛って「B」になる、なんてイメージがある。ちょっとネガティブなイメージだ。

でも待てよ、と思う。

言葉においての「正しいA」ってなんだ?テレビ番組で「正しい日本語はどれ?」といったクイズをやっていてもいつも疑問に思う。それは標準語なの?ということは訛る以前の言葉は標準語なのか?

いやいや、そんなわけがない。

 

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そもそも僕たちが一般的に使っている標準語の歴史なんてものは、実はそんなに古くない。

いわゆる「標準語」は明治中期に国語教育を行うにあたって作られた第1期国定教科書『尋常小学読本』によって形作られたと言われていて、その基となったのは東京の教養層が使っていた山の手言葉。つまりは東京の方言だ。極論ではあるけれど、その時代そのタイミングで日本の中心が東京だったから、東京の方言、訛りが標準語になっただけとも言える。

ではそれ以前はどうだったのか。山の手言葉の成立は明治に入ってからで、それ以前、江戸の町では江戸弁が使われていた。ただそれは江戸の方言という認識であって、特に江戸時代の初期に関しては人口の流入が多く、いわゆる江戸言葉は確立されてなかった。江戸言葉として確立したのはあくまで江戸後期になって政治、文化が成熟してからの話だ。

では、さらに時代を遡るとどうだろう。言うまでもなく、江戸に幕府が置かれるまで日本の中心は京都にあった。鎌倉時代だって朝廷は京都にあった。つまり、日本は長きにわたって京言葉が中央語、つまり日本の標準語として機能していたことになるわけで、それに比べたら東京弁を標準語とする歴史の浅さといったらない。標準語が遷都や時代によって変化してきたことを考慮すると、現代の標準語なんて新参者と言っていい。

 

ちなみに、「訛り」を辞書で引くと、大体の辞書には「標準語とは異なる発音」と書かれているけれど、実のところ国語学の世界には公式・法的にも標準語は存在しないという。太平洋戦争以降、国による標準語政策は行われなくなったから、それは「共通語」と呼ばれるようになったそうだ。「標準」でなく「共通」。なるほど。僕を含めた地方民からすると、確かにそのほうが納得できる。

 

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柳田國男が『蝸牛考』で提唱した「方言周圏論」という方言分布の原則仮説がある。

方言や音韻などの要素は文化的中心から同心円状に伝搬するので、日本の僻地ほど古い言葉が残るという仮説だ。例えば、蝸牛の呼び名は近畿地方では「デデムシ」と呼ばれる。これは最も新しいとされる言葉で、古い呼び名である「ツブリ」は東北や九州で使われていて、そして中部地方や中国地方では「マイマイ」と比較的新しい言葉で呼ばれる。つまり、文化的中心であった京都に近いほど新しい呼び名が使われて、地方には古い呼び名が残っていることになる。これは言葉が日本で長きにわたって中心だった関西圏から同心円状に伝搬していったことの証明で、故に、僻地を探求することは古い日本の文化を知ることに繋がる、という話。松本清張の『砂の器』にも出てきたから知っている人は多いかもしれない。

方言周圏論が絶対的で全ての方言に当てはまるわけではないけれど、この仮説でいうならば、言葉は地方で訛るというよりも、中央で進化すると認識した方が正しいのかもしれない。

 

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石垣島宮古島では「花」を「パナ」、「人」を「ピト」と発音する。

何も知らずにこの話だけ聞けば、あぁこれは沖縄の訛りなんだな、花がパナって訛ったんだな、なんて思うかもしれない。でも実際は違う。この発音には日本語におけるハ行の歴史が大きく関係している。

ハ行の歴史は驚くほど浅くて、日本人がハ行を[h]で発音するようになったのは、実は江戸時代に入ってからだという。それ以前は両唇摩擦音の[φ]で発音していたのでイメージとしては「ファ」、そしてさらに遡ると奈良時代以前は[p]だったとされていて、よく「母」奈良時代まで「パパ」と発音されていたんだよ、なんて笑い話にされることがある。「パパ」→「ファファ」→「ハハ」と音韻が変化してきたわけだ。確かに言われてみると、平安時代の貴族って笑うときに「はははー」じゃなく「ふぁふぁふぁ」って笑うイメージがある。(って、そのイメージ合ってるのか?そんな忠実に歴史物って再現してるのか?笑)

つまり、琉球方言で「花」を「パナ」と発音するのは、古い日本語を使っているだけのことで、決して訛ったわけじゃない。言に化けると書いて「訛り」ならば、訛っているのはむしろ「花(ハナ)」と発音する僕たちの方だ。

 

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それで「訛り」ってなんだろう、と考えてしまう。

言葉は「標準語」と「訛り・方言」に二分されるのではなくて、全てが「訛り・方言」であり「進化した言葉」なんだと、その中の一つをたまたま「共通語」としてるんだと。それが正しい認識なんじゃないかと思う。

もちろん日本の歴史の中で「標準語」を定めたのは素晴らしい功績だと思うけれど、「訛り」という言葉の持つちょっとネガティブなイメージってどうにかならないかなぁ、なんて思うわけだ。これが僕の感じた「訛り」への違和感。

 

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で、だからなんだという話ではないのだけど。

 

ただ、よく思うのは、方言が漏れちゃう女の子ってすごく可愛い。普段は標準語で喋ってるのに、たまに地元のイントネーションが出てくるとキュンとしてしまう。京都弁とか三重弁とか、あと博多弁とかも。(名古屋弁は自分の地元だからか、あんまり好きじゃない。)

現代ではメディアの発達もあって言葉が均一化されてしまい、若い世代ではあまり方言を使う子が少なくなっていると聞く。でもそれって、個人的にはすごく寂しく感じてしまう。方言女子は絶滅してほしくないなぁ。もっと訛りをポジティブなものとして捉えてもらいたい。

って、二千字以上書いて最後が好きな女性のタイプの話って‥。

 

 

ゴジラとゲバラ 誕生日を迎えて

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卒園アルバムの背表紙にはゴジラを描いた。キングギドララドンもいる。怪獣が大好きだった。

 

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気がついたら誕生日も過ぎて久々の更新。

忙しいわけでもないから、本当は週一くらいのペースで更新したいんだけれども、結局先延ばしになって月一くらいでしか更新していない。月日が過ぎるのは本当に早い。何もしていないのに無駄に歳だけとっていく。

 

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今年もまた誕生日を迎えた。

まぁ誕生日といっても特別なことは何もしてなくて、唯一した誕生日っぽい事といえば、前日に誕生日が1日違いの知人と資生堂パーラーでパフェを食べたくらいだ。ささやかだけれど、それくらいでお祝いとしては充分だと思う。そもそも年を重ねるのが嬉しい年齢でもないし。知り合いとちょっと豪華なパフェを食べるくらいが自分には丁度良い。

 

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人と誕生日の話をすると、有名人の誰と同じ誕生日か、という話になるとことがある。

そんな時、自分は「チェ・ゲバラトランプ大統領と同じ誕生日なんだ」と何故か自慢げに言ったりするけれど、冷静に考えたらこれはそんな自慢げに話す内容でもないし、そもそもトランプはまだしもチェ・ゲバラについてはキューバ革命をした人という事以外の知識がない。どんな人なのかよく知らない。革命家なんだからひょっとして物騒な人かもしれない。とすると僕と同じ6月14日が誕生日の人はトランプしかりヤバめの人が多いのかな? だとしたら、いよいよ自慢げに話すことじゃなくなってくる。

なんて思って、一応Wikipediaを見てみると、チェ・ゲバラは別に物騒な人ではなかったようで一安心だ。むしろ勤勉で、大学では医学を学び趣味はカメラ。素敵な人じゃないか。ただ、驚いたのは僕たちがTシャツのプリントなんかでよく目にするゲバラの写真は自分よりも年下で、しかもキューバ革命をすでに成功させていたという事実だ。若い。30歳で革命って起こせるんだなぁ。たいしたもんだと思う。ちなみにドナルド・トランプは、僕の年齢の時にはベンチャー企業であるトランプ・オーガナイゼーションの経営者に君臨していた。みんな若くして大成してる。

僕は別に革命家にも大統領にもなりたいわけじゃないけれど、彼らに比べて今の自分の’何も成し遂げれて無さ’と言ったらない。残念ながら、小さい頃思い描いていた「将来の自分」にはほど遠い生き方をしている。

 

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幼稚園の卒園アルバムに書いた将来の夢は「ゴジラ映画の監督」だった。

当時の僕は、兎にも角にもゴジラに夢中だった。今になって思うと「映画監督」だなんて、映画を作られたモノとして観ているあたり可愛くない幼稚園児だけれど、僕と同じバラ組には将来「ゴジラ」になりたい子と「キングギドラ」になりたい子もいたから(どういうことだ笑)、園内の’ゴジラごっこ’として辻褄は合っていたのかもしれない。ゴジラに夢中だった僕は本気で’ゴジラごっこ’がしたかったんだと思う。

もちろん小学校にあがると’ゴジラごっこ’からは卒業してしまったし、今の僕は映画監督になってもいない。当然、今後ゴジラ映画を撮りたいとも思っていないけれど、それでも幼少期の夢に近づけなかったというのは、やっぱりなんだか寂しく感じてしまう。

あの頃の夢を追いかけたままだったら人生変わったのかなぁ、何かを成し遂げることができたのかなぁ。

 

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誕生日の前々日は一人で『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観に行った。

ハリウッドで製作される3作目のゴジラ映画で、キングギドララドンなんかのおなじみのモンスターが出てくる、怪獣ファンにはたまらない映画。ゴジラへの興味が薄れて久しい自分は前作を観てもいないけれど、それでも今回観に行ったのは監督であるマイケル・ドハディのインタビューを読んだからという所が大きい。

もしも超絶ゴジラオタクがハリウッドで「ゴジラ」を撮ったら… M・ドハティ監督が愛を叫ぶ : 映画ニュース - 映画.com

ゴジラは僕が童心にかえるために大切な存在なんだ。子どものころ、カトリック系の学校に通っていたんだけど、聖書にゴジラの絵を描いてよく怒られていた(笑)。

 

――神に対する背徳なのでは(笑)?

 

そんなことないよ! むしろいいことだよ。何にだって、どんな映画にだって、ゴジラを加えればより良くなると僕は思っている。想像してごらんよ、「スター・ウォーズ」にゴジラを足したら、やばいだろ? 「七人の侍」だってさらに良くなる。54年版の「ゴジラ」にゴジラを足したら、ゴジラがダブルで登場してさらにやばい。

                                                               (映画.com ニュースより抜粋)

 

ゴジラ愛がダダ漏れしてる。いい意味でただのゴジラオタクだ。

小さい頃からゴジラが好きで好きで仕方なくて、挙げ句の果てにハリウッドで100億円以上かけてゴジラ映画を監督している。自ずと過去の自分がリンクしてしまう。僕が思い描くだけで実現出来なかった将来の夢を、彼は実現させている。正直、ジェラシーにも近い不思議な感情を抱いてしまって、これこそ今の自分が見るべき映画なんだ!と天啓を受けたように観に行ってしまった。

正直な感想を言うならば『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は大した内容の映画ではなかったけれど、それでも自分は2時間ずっと感動していたし、多分ずっと笑顔だったと思う。すごく楽しかった。最高だった。そして観終わった後に、もしかして自分も夢を追い続けたらゴジラ映画の監督をするなんて平行世界が存在したのかな、なんて事を思って少しセンチメンタルな気分になった。もう、感情がぐちゃぐちゃだ。

 

 

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なんだか今の自分を悲観するような事をずっと書いてしまったけれど、誤解の無いように言っておくなら、別に今の自分の人生が悪いなんて思っていない。

確かに自分はチェ・ゲバラのような歴史上の人物には成れなかったし、ゴジラ映画の監督をすることも出来なかった。でも映画館でポップコーン食べながらゴジラ観たり、友達と豪華なパフェ食べたりしてるんだから、まぁまぁ幸せな人生だと思う。

自分にはこれが合っている気がする。 そう、これくらいの幸せが丁度いい。

雑記 とりとめもなく

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書きたい話はいくつかあるんだけれど、それが頭の中でふわふわ浮かんでいるだけで全然まとまらない。まるでラーメンの残り汁の中に浮かぶ油みたいに、小さな塊がゆらゆらと頭の中を泳いでる。参ったなぁ、なんて思っていたら一ヶ月も更新してなかった。だからどうでもいい話をいくつか。

 

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新築の便所に客人を招いておはぎを食べる、その名も「便所開き」というぶっ飛んだ奇習が存在するという。そのことを全国放送のラジオで耳にして、日本は広いなぁ、なんて思いながらネットで調べてみると、驚く事に隣の市の風習だった。びっくりだ。世の中はなんと狭いのか。年齢を重ねても日本のサイズ感がいまひとつ把握できていない。

 

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サイズ感がわからないといえば世界地図の話。

僕たちが普段目にする世界地図はメルカトル図法という方式で描かれているけれど、あの図法ではサイズ感を正確に表すことができないそうだ。球体の地球を平面に起こしているんだから当然といえば当然だけれど、地図上では南極や北極に近い国ほど大きくなり、赤道に近いものは正確なサイズで表される。

f:id:tomotom:20190528161015p:plainメルカトル図法 - Wikipedia

例えば北極圏にあるグリーンランドは世界地図で見るととても大きいイメージがあるけれど、実際の国土はメルカトル図法で描かれたサイズの17分の1の大きさでしかなくて、総面積はコンゴ共和国よりも小さいことになる。ロシアは想像していたよりも随分と小さいし、赤道直下のインドネシアは国土面積でいうなら日本の5倍もある。既知のサイズ感が崩壊していく。

f:id:tomotom:20190528161318p:plainThe True Size Of ...


大相撲を観戦にきたトランプ大統領に対して栃ノ心が「(トランプは)思ったよりちっちゃかったね」(日刊スポーツ)とコメントしていたけれど、あれもサイズ感が狂ってる。栃ノ心もトランプも両方とも190センチある。疑いの余地なくデカイ。

 

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全く話は変わって先日テレビで放送していた「インディペンデンス・デイ」の話。

近年あの映画を観た人なら誰しもが思ったであろう「90年代の地球で作られたコンピュータウイルスが、どうして宇宙船のコンピュータ(そもそもコンピュータって概念ある?)に感染するの?」という疑問。実は映画に描かれていない裏設定として、現代のコンピュータは元を辿れば50年前に墜落したUFOのシステムを模範して作られているという経緯があるそうだ。だから人間の作ったコンピュータウイルスが宇宙人のシステムにも問題なく感染するらしい。

その話を聞いて一瞬「なるほど!」と感心はしたけれど、でもどうだろう。何億光年も移動できるような宇宙船ってそんな脆弱なのか?90年代のコンピュータウイルスなんてきっと現代のスマホにも入り込めないだろうに。

なんて考えはダメだな。映画ってそうやって観るものじゃない。特にSFは。

 

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そういえばスマートフォンを買い換えた。iPhoneXs。別に新しい機種が欲しかったわけじゃなくて、今まで使っていたiPhoneWi-Fi感度が急激に悪くなって、ルーターの半径2mに入らなければ電波を拾ってくれないポンコツになってしまったが故に仕方なく買い換える羽目になった。カメラ機能が優れているんですよー、と説明されたけれど、やっぱりどうにもiPhoneで撮った写真の質感は好きじゃない。そんなことだからスマホを買い換えたというのにテンションが全然上がらない。テンションが上がる買い物がしたい。

では何を買ったら自分のテンションは上がるのかな、と考えて見たけれど何も思い浮かばない。年々、物欲が薄れていく。これはいい事なんだろうか。

 

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茶店で友達と無駄話しているようなブログだ。

 

 

ブラックホールへの憧れ

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今月「ブラックホールの撮影に初めて成功!」というニュースが世界を駆け巡った。興味津々に関連記事をいくつか読んでみたけれど、恥ずかしいかな、どれを読んでもよく理解できない。

根っからの文系で、元素記号すらまともに覚えられなかった自分には、ブラックホールを理解出来ないのも当然かも知れないけれど、そもそも質量を持たない光子が重力に影響されるとか、その重力で空間が歪むとか、そういった基本的なところすら理解出来ていない。物理学を基礎から勉強する気もないから(脳みそが追いつかない。たぶん“物理的”に。)、きっと自分はいつまで経ってもブラックホールを理解出来ないんだと思う。

 

でもブラックホールって魅力的だ。何故だかすごく魅力を感じてしまう。

それはきっと、僕がブラックホールのその原理や成り立ちといった物理学的なポイントではなくて、全てを吸い込んでしまう「本当の闇」というものに文学的な魅力を感じているからなのかも知れない。

 

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数年前にイギリスで世界一黒い物質「べンタブラック」が発明された。光を99.9%以上吸収するべンタブラックは本当に真っ黒だ。いや、「黒い」という表現よりも、そこに「穴が空いている」と言った方がしっくりくる。


VANTABLACK - The Darkest Material on Earth

通常、物体に当たった光は反射する。もちろん全て反射するわけではなく、反射する色しない色は物質によって違っていて、そこで反射した色を僕たちはその物質の色として認識する。赤ペンが赤いのはそれ自体が発色しているわけではなくて、赤ペンに当たった光のうち赤色が多く反射しているから赤く見えるだけだ。黒い物、例えば起動していないスマホの画面は真っ黒だけれど、光の反射率もそこそこあるから画面を見ればそこに自分の顔が映る。そのことで画面が平らでツルツルなんだと認識する。光が反射することで僕たちは色や立体感を感じることができる。

それに比べてベンタブラックはほとんどの光を吸収してしまう。だからそこには色も立体感もなくて、視覚的には「無」だ。もちろんそれはとても特異なことだけれど、待てよ、と思う。

光が反射しないことを「無」に等しいと感じるのであれば、そもそも自ら光を発していない自分を含めた殆どの物質も「無」なんじゃないか。

 

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夜、寝る前に電気を消す。

その瞬間に部屋にある殆ど全ての物は色を失う。スマートフォンと消し忘れたオーディオインターフェイスの電源ランプ以外はモノクロになる。ダサいアイボリー色の天井も、ハンガーにかかったインディゴブルーのジャケットもみんな平等に色を失う。この時、僕は「インディゴブルーが黒く見えている」と認識するけれど、実はそれは正解じゃなくて、正しくは光を消したその瞬間にジャケットは「何色でもないもの」になる。本来の姿になる。

自ら光を発していない物質は、そもそも何色でもない。

赤いライトを当てたらジャケットは深いエンジ色に見えるかも知れないけれど、それはインディゴブルーがエンジ色に見えている訳ではなくて、その瞬間そのジャケットはエンジ色をしている。もっと正確に言うと、エンジ色の光子が跳ね返ってそれを僕が知覚しただけの話。

そして光を当てなければそれは「無色」だ。

そもそも僕たちはみんな無色だ。触れなければ立体感もない。光が当たらなければ何色にもなれない。外的な力が加わらなければ自らを定義することができない。モノとは得てしてそんな存在だ。

そう、この話はメタファーでもある。

 

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ブラックホールの魅力はそこにある気がする。

光が当たらなければ自分を定義できない僕(たち)にとって、その光さえも飲み込んでしまう「無」であり、そして一方では圧倒的な存在感を放つブラックホールは、一種の憧れなのかもしれない。達観した存在。解脱者として。

エジソンが電球を発明する以前の世界で太陽が信仰の対象となり得たように、光の溢れたこの世界でブラックホールは神に近い存在なのかもしれない。

 

 

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そういえば先日、生まれて初めて物理雑誌の『Newton』を買った。

特集は「無とは何か」で、それはもちろん哲学的な意味での「無」はなくて、物理的な意味での「無」について。例えば「真空」や「宇宙の外」についての話で、上に書いたような内容とも一切関係がない話だったけれど、それでもとても面白かった。物理素人からすると全体的に目から鱗の内容。「個体の氷や鉄のような物質であろうと、実際には“無”と大差がないといえます。」という一文と、その理由に感嘆する。