ハナムグリのように

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月日の流れとピダハンのこと

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月日の流れは本当に早い。

夏の真ん中に「終戦記念日が~」という書き出しでブログを書いて、それからしばらく経って思い出したようにブログを投稿したのが前回で11月のこと。そして気がつけば今はもう年末だ。季節ごとに友達へ手紙を送っているような、そんな感覚に近い。

以前はもっと更新頻度を上げたいと思っていたけれど、最近ではそうも思わなくなった。ふと自分が書きたいと思った時に書いて、それを知らない誰かが偶然読んでくれたらそれで良い。それ以上のことは求めていないし、その気持ちは多分これからもずっとそうだ。

路地裏の猫にすら話すのを躊躇するような、毒にも薬にもならない戯言。喫茶店で友達と喋って、一時間後には思い出すことも出来ないような、そんな下らない話をこれからも書いていきたいと思う。

 

今年もありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。

 

 

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それにしても、月日の流れは本当に早い。

この月日の流れが早く感じる原因については、いろんな人がいろんな事を言っているけれど、僕個人としては以前から日本の ’四季’ が影響しているんじゃないかと睨んでいる。

ご存知の通り日本は世界的にみても四季のハッキリとした地域で、一年を通して目まぐるしく気候が変わっていく。四季という名が表す四つの季節だけでなく、二十四節気なんていうさらに細かい区分まで存在する。365日を24の季節に分けているってことは、約2週間で一つの季節が終わる計算になる。早すぎる。大げさでなく日本は常に季節の変わり目だと言っていい。

そして、そんな細かい季節区分で生活する僕たちは季節ごとの行事に追われている。ハロウィンだクリスマスだ正月だといった年中行事はもちろん、衣替えしなきゃとか、お歳暮送らなきゃとか、夏だスイカ食べよう、秋だサンマ食べよう、冬至だカボチャ食べようなんて、季節の呪いに追われ続けているわけだ。そのことが僕たちに月日の経過を早く感じさせている要因なんじゃないかと思ってる。

ちょっと強引かもしれないけれど、例えるなら、何もない荒野を歩くのは永遠のように感じてしまうのに、賑やかな街をウィンドウショッピングして歩くのはあっという間に感じてしまうような、種類の多い海鮮丼はあっという間に食べてしまうのに、しらす丼は思ったより箸が進まないような(いや、それは違うか)、そんな感覚に陥っているのかもしれない。

だからきっと四季のはっきりしない常夏の国なんかで暮らせば、日々がゆったり過ぎていくんだろうと思う。南の島でハンモックに揺られながらトロピカルジュース飲んで、BPMのうんと遅い音楽を流したりしてさ。まぁ、多くの人は2週間ぐらいでそれを「退屈」と呼ぶようになるんだろうけれど。

 

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月日の流れや時間の経過を考える時にいつも思うことがある。

それは時間の進み方の捉え方で、①時間の中を僕たちが進んでいる②僕たちの中を時間が進んでいる、のどちらが時間の捉え方として正解なんだろうということだ。これはあまりにも感覚的だし、抽象的な表現だから自分でも何を言っているのかわからないのだけれど、前者はイメージとして年表のような時間軸の中を僕たちの世界が進んでいく捉え方で、後者は定点カメラを置いて花が朽ちていくのを眺めているようなイメージだ。うん、解説しても全然わからないぞ。

これは主観的な捉え方と客観的な捉え方の違いなのか、と問われれば、んー、それも自分の中ではしっくりこない。過去未来を踏まえた捉え方と、刹那的な捉え方の違いといった方がしっくりくるのか。まぁ、そもそも時間の捉え方なんて、それに正解とか不正解は無いんだろうけど。

ただ思うのは、僕たちはいつだって過去や未来の事を考えたがるし、それらを視覚的にして理解したがるということだ。だから計画を立てるし、それを書き起こすし、効率よく進めようと思考する。夢を思い描くし、過去を映像や絵画によって理解し、そこから学ぼうとする。だからイメージとしては前者、年表のような時間軸の中を僕たちが進んでいるような捉え方で、僕を含め多くの人たちは生きているんじゃないかと思う。

でも、だ。 時間はいつだって、僕の前には「現在」しか現れない。未来だってその時になれば「現在」だし、過去だってその時は「現在」だった。過去や未来は想像できても体感できない。ならばいっそのこと「現在」に集中してみたらどうだろう。そうすれば、月日の経過に変化があるんじゃないだろうか。

海鮮丼の例に戻すと、海鮮丼を食べながら次はイクラに手を付けようとか考えていても、海鮮丼の中のしらすゾーンを口に入れた時には、しらす丼を食べている時と同じ「現在」がある。どっちも現在はしらすを食べている。でも「過去マグロ」で「未来イクラ」の「現在しらす」と「過去も未来もしらす」の「現在しらす」では、捉え方も感じ方も全く違ってくるはずだ。両方とも同じ「現在しらす」なのに!(俺は何を言ってるんだ?)

話を戻すと、月日の経過速度なんてのは、海鮮丼(まだ海鮮丼の話をするのか‥)ばかりを食べている現代の僕たちには、早く感じて致し方ない事なのかもしれない。遅く感じたいのなら、味に変化の無いしらす丼を食べるしかない。でも、現代社会に生きている僕たちはいつだって海鮮丼の中のシラスを食べているわけだし、それは飽きがこなくて美味しいと思って食べているんだから、そこは諦めるしかないんだろうな。なんて書いてたら海鮮丼が食べたくなってきてしまった。

 

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四季の移り変わりがほとんどないアマゾンに、ピダハンという狩猟採集民族が暮らしている。彼らの社会は、現代社会で暮らす僕たちには到底理解できないような異質なものだという。

まず、彼らの社会には世界中どこの社会にでも生まれるであろう宗教的な儀礼が存在しない。葬式や結婚式もないし、神話や口頭伝承もない。さらには曾祖父母や従兄弟の概念もない。芸術作品どころか道具類もほとんど作らないし、狩猟採集はするけれど保存食も作らない。さらに彼らには左右の概念や数の概念、色の名前すらもないという。どういうことだ?それで社会って成り立つのか?

彼らの文化を研究したダニエル・L・エヴェレット氏いわく「叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存してきた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる」のだという。

ピダハンの言語には、過去や未来を示す時制が限定的にしか存在しない。彼らには直接体験の原則があって、自分が実際に見たり体験してない事柄、つまり僕らが「過去」や「未来」と呼ぶものには関心を示すことがない。だから曾祖父母やいとこの概念もなければ、神話や伝承もない。保存食を作らないのもそれなら納得できる。彼らには「現在」しかない。そして「現在」しか語らないのだから、数や色の名前のような抽象的・記号的な概念を必要としない。

彼らは、今その時を生きている。だから他の文化にも関心がなく、それらと比較することももちろんない。自分の今が最高だと思っているから、自身に降りかかった不幸を笑い、過酷な運命を淡々と受け入れることができる。彼らはよく笑うんだそうだ。

 

このピダハンの話を聞いて僕が真っ先に思ったのは、彼らの時間の感じ方についてだ。

「現在」しか考えていないピダハンと「過去」や「未来」に囚われている僕たちでは、時間の感じ方が絶対的に違うはずだ。~から、~まで、という「過去」や「未来」を思い描けるからこそ、僕たちは時間を認識できているはずだ。だから「現在」しかない彼らの世界では、生きることは「永遠」に近いんじゃないだろうか?でも、永遠に生きるって、それは生きていると言えるのか?それって幸せなのか?なんて疑問がどんどん湧いてくる。まぁ、現代社会で暮らす僕たちの価値観で彼らの幸せを測るのは野暮なのかもしれないけれど。

 

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アマゾンの気温は一年を通してほぼ変わらないという。降水量こそ変われど、乾期はない。基本的に一年中ずっと蒸し暑い。ピダハンの社会を作り上げた要因が、この気候にあるというのは容易に想像ができる。

だって日本の気候ではそうはいかない。農耕民族である僕たちは、季節の奴隷になって暮らしていると言っても過言ではない。春に種を蒔き、酷暑を乗り切り、秋に収穫した食物を、厳しい冬に備えて貯蔵する。ピダハンのように現在だけを考えていては生活する事が出来ない僕たちは、四季によって生かされている。そして四季は生活にリズムを作る。リズムはビートを生む。心臓の鼓動を英語でハートビートと言うけれど、まさにビートは生きている証だ。

 

光陰矢の如し、なんて言って僕たちは月日の流れの早さを嘆くけれど、四季のある日本ではそれこそが「生きる」ってことなのかもしれない。そう考えると、月日の流れが早いのもなかなか良い事のように思えてくる。

 

今年も早かった。よく生きたな。お疲れ様です、自分!

 

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 ピダハンについての話はこの本から