ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

訛りについての話

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先日、知り合いとご飯を食べているときのこと、その知り合いが高校の恩師の話をし始めた途端、急に地元の訛りが出てきたので、驚いて思わず笑ってしまった。

「あっ、急に三重のイントネーションになったね」「えっほんと?気がつかなかった」「地元の話をすると訛っちゃうよねー、あははー」

まるで思い出と一緒に言葉もタイムスリップしてるみたいで面白かったのだけれど、そのとき自分で使った「訛り」という言葉に自分自身で何処か違和感を感じてしまう。「訛り」ってなんだろう。

実は、少し前に趣味で方言や訛りについて調べたことがあって、それ以来「訛り」という言葉がどうも腑に落ちないでいた。

 

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「言」に「化」と書いて「訛」。言葉が化けると書く。その漢字単体で「いつわる」や「あやまる」という意味があることを踏まえると「訛り」という言葉には、「正しいA」が訛って「B」になる、なんてイメージがある。ちょっとネガティブなイメージだ。

でも待てよ、と思う。

言葉においての「正しいA」ってなんだ?テレビ番組で「正しい日本語はどれ?」といったクイズをやっていてもいつも疑問に思う。それは標準語なの?ということは訛る以前の言葉は標準語なのか?

いやいや、そんなわけがない。

 

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そもそも僕たちが一般的に使っている標準語の歴史なんてものは、実はそんなに古くない。

いわゆる「標準語」は明治中期に国語教育を行うにあたって作られた第1期国定教科書『尋常小学読本』によって形作られたと言われていて、その基となったのは東京の教養層が使っていた山の手言葉。つまりは東京の方言だ。極論ではあるけれど、その時代そのタイミングで日本の中心が東京だったから、東京の方言、訛りが標準語になっただけとも言える。

ではそれ以前はどうだったのか。山の手言葉の成立は明治に入ってからで、それ以前、江戸の町では江戸弁が使われていた。ただそれは江戸の方言という認識であって、特に江戸時代の初期に関しては人口の流入が多く、いわゆる江戸言葉は確立されてなかった。江戸言葉として確立したのはあくまで江戸後期になって政治、文化が成熟してからの話だ。

では、さらに時代を遡るとどうだろう。言うまでもなく、江戸に幕府が置かれるまで日本の中心は京都にあった。鎌倉時代だって朝廷は京都にあった。つまり、日本は長きにわたって京言葉が中央語、つまり日本の標準語として機能していたことになるわけで、それに比べたら東京弁を標準語とする歴史の浅さといったらない。標準語が遷都や時代によって変化してきたことを考慮すると、現代の標準語なんて新参者と言っていい。

 

ちなみに、「訛り」を辞書で引くと、大体の辞書には「標準語とは異なる発音」と書かれているけれど、実のところ国語学の世界には公式・法的にも標準語は存在しないという。太平洋戦争以降、国による標準語政策は行われなくなったから、それは「共通語」と呼ばれるようになったそうだ。「標準」でなく「共通」。なるほど。僕を含めた地方民からすると、確かにそのほうが納得できる。

 

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柳田國男が『蝸牛考』で提唱した「方言周圏論」という方言分布の原則仮説がある。

方言や音韻などの要素は文化的中心から同心円状に伝搬するので、日本の僻地ほど古い言葉が残るという仮説だ。例えば、蝸牛の呼び名は近畿地方では「デデムシ」と呼ばれる。これは最も新しいとされる言葉で、古い呼び名である「ツブリ」は東北や九州で使われていて、そして中部地方や中国地方では「マイマイ」と比較的新しい言葉で呼ばれる。つまり、文化的中心であった京都に近いほど新しい呼び名が使われて、地方には古い呼び名が残っていることになる。これは言葉が日本で長きにわたって中心だった関西圏から同心円状に伝搬していったことの証明で、故に、僻地を探求することは古い日本の文化を知ることに繋がる、という話。松本清張の『砂の器』にも出てきたから知っている人は多いかもしれない。

方言周圏論が絶対的で全ての方言に当てはまるわけではないけれど、この仮説でいうならば、言葉は地方で訛るというよりも、中央で進化すると認識した方が正しいのかもしれない。

 

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石垣島宮古島では「花」を「パナ」、「人」を「ピト」と発音する。

何も知らずにこの話だけ聞けば、あぁこれは沖縄の訛りなんだな、花がパナって訛ったんだな、なんて思うかもしれない。でも実際は違う。この発音には日本語におけるハ行の歴史が大きく関係している。

ハ行の歴史は驚くほど浅くて、日本人がハ行を[h]で発音するようになったのは、実は江戸時代に入ってからだという。それ以前は両唇摩擦音の[φ]で発音していたのでイメージとしては「ファ」、そしてさらに遡ると奈良時代以前は[p]だったとされていて、よく「母」奈良時代まで「パパ」と発音されていたんだよ、なんて笑い話にされることがある。「パパ」→「ファファ」→「ハハ」と音韻が変化してきたわけだ。確かに言われてみると、平安時代の貴族って笑うときに「はははー」じゃなく「ふぁふぁふぁ」って笑うイメージがある。(って、そのイメージ合ってるのか?そんな忠実に歴史物って再現してるのか?笑)

つまり、琉球方言で「花」を「パナ」と発音するのは、古い日本語を使っているだけのことで、決して訛ったわけじゃない。言に化けると書いて「訛り」ならば、訛っているのはむしろ「花(ハナ)」と発音する僕たちの方だ。

 

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それで「訛り」ってなんだろう、と考えてしまう。

言葉は「標準語」と「訛り・方言」に二分されるのではなくて、全てが「訛り・方言」であり「進化した言葉」なんだと、その中の一つをたまたま「共通語」としてるんだと。それが正しい認識なんじゃないかと思う。

もちろん日本の歴史の中で「標準語」を定めたのは素晴らしい功績だと思うけれど、「訛り」という言葉の持つちょっとネガティブなイメージってどうにかならないかなぁ、なんて思うわけだ。これが僕の感じた「訛り」への違和感。

 

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で、だからなんだという話ではないのだけど。

 

ただ、よく思うのは、方言が漏れちゃう女の子ってすごく可愛い。普段は標準語で喋ってるのに、たまに地元のイントネーションが出てくるとキュンとしてしまう。京都弁とか三重弁とか、あと博多弁とかも。(名古屋弁は自分の地元だからか、あんまり好きじゃない。)

現代ではメディアの発達もあって言葉が均一化されてしまい、若い世代ではあまり方言を使う子が少なくなっていると聞く。でもそれって、個人的にはすごく寂しく感じてしまう。方言女子は絶滅してほしくないなぁ。もっと訛りをポジティブなものとして捉えてもらいたい。

って、二千字以上書いて最後が好きな女性のタイプの話って‥。

 

 

ゴジラとゲバラ 誕生日を迎えて

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卒園アルバムの背表紙にはゴジラを描いた。キングギドララドンもいる。怪獣が大好きだった。

 

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気がついたら誕生日も過ぎて久々の更新。

忙しいわけでもないから、本当は週一くらいのペースで更新したいんだけれども、結局先延ばしになって月一くらいでしか更新していない。月日が過ぎるのは本当に早い。何もしていないのに無駄に歳だけとっていく。

 

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今年もまた誕生日を迎えた。

まぁ誕生日といっても特別なことは何もしてなくて、唯一した誕生日っぽい事といえば、前日に誕生日が1日違いの知人と資生堂パーラーでパフェを食べたくらいだ。ささやかだけれど、それくらいでお祝いとしては充分だと思う。そもそも年を重ねるのが嬉しい年齢でもないし。知り合いとちょっと豪華なパフェを食べるくらいが自分には丁度良い。

 

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人と誕生日の話をすると、有名人の誰と同じ誕生日か、という話になるとことがある。

そんな時、自分は「チェ・ゲバラトランプ大統領と同じ誕生日なんだ」と何故か自慢げに言ったりするけれど、冷静に考えたらこれはそんな自慢げに話す内容でもないし、そもそもトランプはまだしもチェ・ゲバラについてはキューバ革命をした人という事以外の知識がない。どんな人なのかよく知らない。革命家なんだからひょっとして物騒な人かもしれない。とすると僕と同じ6月14日が誕生日の人はトランプしかりヤバめの人が多いのかな? だとしたら、いよいよ自慢げに話すことじゃなくなってくる。

なんて思って、一応Wikipediaを見てみると、チェ・ゲバラは別に物騒な人ではなかったようで一安心だ。むしろ勤勉で、大学では医学を学び趣味はカメラ。素敵な人じゃないか。ただ、驚いたのは僕たちがTシャツのプリントなんかでよく目にするゲバラの写真は自分よりも年下で、しかもキューバ革命をすでに成功させていたという事実だ。若い。30歳で革命って起こせるんだなぁ。たいしたもんだと思う。ちなみにドナルド・トランプは、僕の年齢の時にはベンチャー企業であるトランプ・オーガナイゼーションの経営者に君臨していた。みんな若くして大成してる。

僕は別に革命家にも大統領にもなりたいわけじゃないけれど、彼らに比べて今の自分の’何も成し遂げれて無さ’と言ったらない。残念ながら、小さい頃思い描いていた「将来の自分」にはほど遠い生き方をしている。

 

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幼稚園の卒園アルバムに書いた将来の夢は「ゴジラ映画の監督」だった。

当時の僕は、兎にも角にもゴジラに夢中だった。今になって思うと「映画監督」だなんて、映画を作られたモノとして観ているあたり可愛くない幼稚園児だけれど、僕と同じバラ組には将来「ゴジラ」になりたい子と「キングギドラ」になりたい子もいたから(どういうことだ笑)、園内の’ゴジラごっこ’として辻褄は合っていたのかもしれない。ゴジラに夢中だった僕は本気で’ゴジラごっこ’がしたかったんだと思う。

もちろん小学校にあがると’ゴジラごっこ’からは卒業してしまったし、今の僕は映画監督になってもいない。当然、今後ゴジラ映画を撮りたいとも思っていないけれど、それでも幼少期の夢に近づけなかったというのは、やっぱりなんだか寂しく感じてしまう。

あの頃の夢を追いかけたままだったら人生変わったのかなぁ、何かを成し遂げることができたのかなぁ。

 

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誕生日の前々日は一人で『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観に行った。

ハリウッドで製作される3作目のゴジラ映画で、キングギドララドンなんかのおなじみのモンスターが出てくる、怪獣ファンにはたまらない映画。ゴジラへの興味が薄れて久しい自分は前作を観てもいないけれど、それでも今回観に行ったのは監督であるマイケル・ドハディのインタビューを読んだからという所が大きい。

もしも超絶ゴジラオタクがハリウッドで「ゴジラ」を撮ったら… M・ドハティ監督が愛を叫ぶ : 映画ニュース - 映画.com

ゴジラは僕が童心にかえるために大切な存在なんだ。子どものころ、カトリック系の学校に通っていたんだけど、聖書にゴジラの絵を描いてよく怒られていた(笑)。

 

――神に対する背徳なのでは(笑)?

 

そんなことないよ! むしろいいことだよ。何にだって、どんな映画にだって、ゴジラを加えればより良くなると僕は思っている。想像してごらんよ、「スター・ウォーズ」にゴジラを足したら、やばいだろ? 「七人の侍」だってさらに良くなる。54年版の「ゴジラ」にゴジラを足したら、ゴジラがダブルで登場してさらにやばい。

                                                               (映画.com ニュースより抜粋)

 

ゴジラ愛がダダ漏れしてる。いい意味でただのゴジラオタクだ。

小さい頃からゴジラが好きで好きで仕方なくて、挙げ句の果てにハリウッドで100億円以上かけてゴジラ映画を監督している。自ずと過去の自分がリンクしてしまう。僕が思い描くだけで実現出来なかった将来の夢を、彼は実現させている。正直、ジェラシーにも近い不思議な感情を抱いてしまって、これこそ今の自分が見るべき映画なんだ!と天啓を受けたように観に行ってしまった。

正直な感想を言うならば『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は大した内容の映画ではなかったけれど、それでも自分は2時間ずっと感動していたし、多分ずっと笑顔だったと思う。すごく楽しかった。最高だった。そして観終わった後に、もしかして自分も夢を追い続けたらゴジラ映画の監督をするなんて平行世界が存在したのかな、なんて事を思って少しセンチメンタルな気分になった。もう、感情がぐちゃぐちゃだ。

 

 

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なんだか今の自分を悲観するような事をずっと書いてしまったけれど、誤解の無いように言っておくなら、別に今の自分の人生が悪いなんて思っていない。

確かに自分はチェ・ゲバラのような歴史上の人物には成れなかったし、ゴジラ映画の監督をすることも出来なかった。でも映画館でポップコーン食べながらゴジラ観たり、友達と豪華なパフェ食べたりしてるんだから、まぁまぁ幸せな人生だと思う。

自分にはこれが合っている気がする。 そう、これくらいの幸せが丁度いい。

雑記 とりとめもなく

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書きたい話はいくつかあるんだけれど、それが頭の中でふわふわ浮かんでいるだけで全然まとまらない。まるでラーメンの残り汁の中に浮かぶ油みたいに、小さな塊がゆらゆらと頭の中を泳いでる。参ったなぁ、なんて思っていたら一ヶ月も更新してなかった。だからどうでもいい話をいくつか。

 

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新築の便所に客人を招いておはぎを食べる、その名も「便所開き」というぶっ飛んだ奇習が存在するという。そのことを全国放送のラジオで耳にして、日本は広いなぁ、なんて思いながらネットで調べてみると、驚く事に隣の市の風習だった。びっくりだ。世の中はなんと狭いのか。年齢を重ねても日本のサイズ感がいまひとつ把握できていない。

 

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サイズ感がわからないといえば世界地図の話。

僕たちが普段目にする世界地図はメルカトル図法という方式で描かれているけれど、あの図法ではサイズ感を正確に表すことができないそうだ。球体の地球を平面に起こしているんだから当然といえば当然だけれど、地図上では南極や北極に近い国ほど大きくなり、赤道に近いものは正確なサイズで表される。

f:id:tomotom:20190528161015p:plainメルカトル図法 - Wikipedia

例えば北極圏にあるグリーンランドは世界地図で見るととても大きいイメージがあるけれど、実際の国土はメルカトル図法で描かれたサイズの17分の1の大きさでしかなくて、総面積はコンゴ共和国よりも小さいことになる。ロシアは想像していたよりも随分と小さいし、赤道直下のインドネシアは国土面積でいうなら日本の5倍もある。既知のサイズ感が崩壊していく。

f:id:tomotom:20190528161318p:plainThe True Size Of ...


大相撲を観戦にきたトランプ大統領に対して栃ノ心が「(トランプは)思ったよりちっちゃかったね」(日刊スポーツ)とコメントしていたけれど、あれもサイズ感が狂ってる。栃ノ心もトランプも両方とも190センチある。疑いの余地なくデカイ。

 

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全く話は変わって先日テレビで放送していた「インディペンデンス・デイ」の話。

近年あの映画を観た人なら誰しもが思ったであろう「90年代の地球で作られたコンピュータウイルスが、どうして宇宙船のコンピュータ(そもそもコンピュータって概念ある?)に感染するの?」という疑問。実は映画に描かれていない裏設定として、現代のコンピュータは元を辿れば50年前に墜落したUFOのシステムを模範して作られているという経緯があるそうだ。だから人間の作ったコンピュータウイルスが宇宙人のシステムにも問題なく感染するらしい。

その話を聞いて一瞬「なるほど!」と感心はしたけれど、でもどうだろう。何億光年も移動できるような宇宙船ってそんな脆弱なのか?90年代のコンピュータウイルスなんてきっと現代のスマホにも入り込めないだろうに。

なんて考えはダメだな。映画ってそうやって観るものじゃない。特にSFは。

 

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そういえばスマートフォンを買い換えた。iPhoneXs。別に新しい機種が欲しかったわけじゃなくて、今まで使っていたiPhoneWi-Fi感度が急激に悪くなって、ルーターの半径2mに入らなければ電波を拾ってくれないポンコツになってしまったが故に仕方なく買い換える羽目になった。カメラ機能が優れているんですよー、と説明されたけれど、やっぱりどうにもiPhoneで撮った写真の質感は好きじゃない。そんなことだからスマホを買い換えたというのにテンションが全然上がらない。テンションが上がる買い物がしたい。

では何を買ったら自分のテンションは上がるのかな、と考えて見たけれど何も思い浮かばない。年々、物欲が薄れていく。これはいい事なんだろうか。

 

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茶店で友達と無駄話しているようなブログだ。

 

 

ブラックホールへの憧れ

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今月「ブラックホールの撮影に初めて成功!」というニュースが世界を駆け巡った。興味津々に関連記事をいくつか読んでみたけれど、恥ずかしいかな、どれを読んでもよく理解できない。

根っからの文系で、元素記号すらまともに覚えられなかった自分には、ブラックホールを理解出来ないのも当然かも知れないけれど、そもそも質量を持たない光子が重力に影響されるとか、その重力で空間が歪むとか、そういった基本的なところすら理解出来ていない。物理学を基礎から勉強する気もないから(脳みそが追いつかない。それはたぶん“物理的”に)、きっと自分はいつまで経ってもブラックホールを理解出来ないんだと思う。

 

でもブラックホールって魅力的だ。何故だかすごく魅力を感じてしまう。

それはきっと、僕がブラックホールのその原理や成り立ちといった物理学的なポイントではなくて、全てを吸い込んでしまう「本当の闇」というものに文学的な魅力を感じているからなのかも知れない。

 

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数年前にイギリスで世界一黒い物質「べンタブラック」が発明された。光を99.9%以上吸収するべンタブラックは本当に真っ黒だ。いや、「黒い」という表現よりも、そこに「穴が空いている」と言った方がしっくりくる。


VANTABLACK - The Darkest Material on Earth

通常、物体に当たった光は反射する。もちろん全て反射するわけではなく、反射する色しない色は物質によって違っていて、そこで反射した色を僕たちはその物質の色として認識する。赤ペンが赤いのはそれ自体が発色しているわけではなくて、赤ペンに当たった光のうち赤色が多く反射しているから赤く見えるだけだ。黒い物、例えば起動していないスマホの画面は真っ黒だけれど、光の反射率もそこそこあるから画面を見ればそこに自分の顔が映る。そのことで画面が平らでツルツルなんだと認識する。光が反射することで僕たちは色や立体感を感じることができる。

それに比べてベンタブラックはほとんどの光を吸収してしまう。だからそこには色も立体感もなくて、視覚的には「無」だ。もちろんそれはとても特異なことだけれど、待てよ、と思う。

光が反射しないことを「無」に等しいと感じるのであれば、そもそも自ら光を発していない自分を含めた殆どの物質も「無」なんじゃないか。

 

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夜、寝る前に電気を消す。

その瞬間に部屋にある殆ど全ての物は色を失う。スマートフォンと消し忘れたオーディオインターフェイスの電源ランプ以外はモノクロになる。ダサいアイボリー色の天井も、ハンガーにかかったインディゴブルーのジャケットもみんな平等に色を失う。この時、僕は「インディゴブルーが黒く見えている」と認識するけれど、実はそれは正解じゃなくて、正しくは光を消したその瞬間にジャケットは「何色でもないもの」になる。本来の姿になる。

自ら光を発していない物質は、そもそも何色でもない。

赤いライトを当てたらジャケットは深いエンジ色に見えるかも知れないけれど、それはインディゴブルーがエンジ色に見えている訳ではなくて、その瞬間そのジャケットはエンジ色をしている。もっと正確に言うと、エンジ色の光子が跳ね返ってそれを僕が知覚しただけの話。

そして光を当てなければそれは「無色」だ。

そもそも僕たちはみんな無色だ。触れなければ立体感もない。光が当たらなければ何色にもなれない。外的な力が加わらなければ自らを定義することができない。モノとは得てしてそんな存在だ。

そう、この話はメタファーでもある。

 

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ブラックホールの魅力はそこにある気がする。

光が当たらなければ自分を定義できない僕(たち)にとって、その光さえも飲み込んでしまう「無」であり、そして一方では圧倒的な存在感を放つブラックホールは、一種の憧れなのかもしれない。達観した存在。解脱者として。

エジソンが電球を発明する以前の世界で太陽が信仰の対象となり得たように、光の溢れたこの世界でブラックホールは神に近い存在なのかもしれない。

 

 

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そういえば先日、生まれて初めて物理雑誌の『Newton』を買った。

特集は「無とは何か」で、それはもちろん哲学的な意味での「無」はなくて、物理的な意味での「無」について。例えば「真空」や「宇宙の外」についての話で、上に書いたような内容とも一切関係がない話だったけれど、それでもとても面白かった。物理素人からすると全体的に目から鱗の内容。「個体の氷や鉄のような物質であろうと、実際には“無”と大差がないといえます。」という一文と、その理由に感嘆する。

 

 

カレーを食べながら考える「差別」とか「日本の未来」とか

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よく行くネパールカレー屋さんで昼食を取っていると、前の席の黒人男性が片言の日本語で料理の注文をしていた。注文を受ける店員さんも外国人(多分ネパール人)。これといって特別な光景では無いけれど、これからこんな光景はもっと増えてくんだろうなと、ぼんやり思う。

 

ここ数年、この街には外国籍の人が随分と増えた。カレー屋さんも増えた。

家の近所にはインターナショナルスクールも出来るらしい。その場所は、かつて僕が通っていた小学校のあった場所なのだけど、数年前に少子化の影響で他校と合併してしまい、ここしばらくは校舎だけが寂しく残されていた。それがこの度、晴れてインターナショナルスクールとして再稼働することになるという。

今年の4月から外国人労働者の受け入れ制度が拡大したことも考えると、今後この街にはもっと沢山の外国人がやって来るはずだ。

 

この街が国際的な、素敵な街になってくれると良いなと思う。

 

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先日、あるバラエティ番組で、コンビニで働く外国人労働者の日本語の間違いをネタにして出演者全員がゲラゲラ笑うという、最低な場面が放送されていた。当然、放送直後からネット上で問題視されたわけだけど、本当に(自分を含め)日本人というのは差別に対するリテラシーが低いんだなと痛感させられる。

 

日本は決して単一民族国家では無いけれど、日本列島に住む日本人の大半は大和民族だ。僕もそう。日本人の父母から生まれたし、たぶん死んだときにはお坊さんが来てお経を読んでくれる。願い事をするときは「神様、仏様」と言うし、端午の節句には柏餅を食べて、お正月には鏡餅を飾って、さらに数日後にはそれを食べる。そんな餅が好きな民族である僕たちは、日本にいる限り圧倒的にマジョリティだ。

そして多数派だったからこそ、差別がダメなことくらい頭では理解はしていても、現実的な問題にはとても鈍感なのかもしれない。圧倒的な多数派の中で生きてこれたお陰で、日本では差別することも、されることも無かったから。

 

誰だって差別がダメなことくらい知っている。テレビ番組で外国人労働者の日本語の間違いを嘲笑っていた芸能人だって、トランプ大統領の差別的な発言には眉をしかめるかもしれない。何故なら、アメリカにおいては日本人がマイノリティになってしまうから。ともすれば差別される側の人間になってしまうから。

結局、差別は自分がマイノリティにならない限りは、本当の意味での理解が出来ないのかもしれない。

 

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ドナルド・トランプが大統領に就任して2年が経った今でも、トランプの支持率は一向に下がらない。あんなに差別的な発言を連発しているのにも関わらずだ。遠く離れた日本から見ていると、そのことが不思議で仕方ない。

 

アメリカ(だけでは無いけど)の世論が右翼化していたり、白人至上主義が盛り上がってたりする背景には、白人が危機感を感じているからという話を聞いたことがある。

白人至上主義というと、有色人種より我々は優れている!なんてことを唱えている人たちのイメージがあるけれど、最近の白人至上主義者たちは自分たちがマイノリティになることを恐れていて、その恐怖心が有色人種を嫌う動機づけになっているらしい。もともとアメリカはイギリスから白人が入植して建国した“白人の国”だったのに、このまま移民が増え続ければ白人は少数派になってしまう!という危機感を持っているという。事実、アメリカの国勢調査局の予想では、2044年までに非ヒスパニック系白人が人口に占める割合は50%を割ることになる。日本人からすると、そもそもインディアンの土地を奪った’外国人’が作った国なのに何を今更言っているんだ、となるけれど‥。

 

ただそれは、自分が日本で圧倒的なマジョリティとして生きているからそんな風に思うのかな、とも考えてしまう。

例えばこの先、少ない労働力を補うために日本政府が移民政策を推し進めて、外国人がたくさん流入したとしたら。その2世3世が日本人としてこの国で暮らしたとしたら。社会が多様化して、日本固有の文化が次第に薄れていったら。日本人における大和民族の割合が50%を割る日がきたとしたら。その時になって、初めて日本人は今アメリカで起きていることを理解するのかもしれない。

 

そんな未来が訪れた時、今の日本人が持つ差別に対してのリテラシーの低さは本当に怖い。

既に、現在でもネット上にはヘイトが溢れてる。間違った愛国主義が吹き荒れている。そのことに嫌悪感を抱く自分の気持ちを大事に持っていないと、来るべき多様性を持った未来の社会で間違った判断をしてしまうかもしれない。常に自分の立場とは違う立場の視点も持ち、そしてそれを尊重する。そんな、もの凄く簡単なことにも気づけなくなる未来がくるかも知れない。恐ろしい。

 

と、そんなことをカレーを食べながら考える。

それにしても、カレーは平和だ。いろんな野菜や肉が鍋の中で一緒くたに煮込まれる。アメリカが「人種の坩堝」だとするなら、カレーは「食物の坩堝」だ。沢山の香辛料と時間を使って、様々な食材が調和のとれた味になるまで煮込まれる。

世界が美味しいカレーのようになれば良いと思う。

 

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日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜

「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜 (朝日文庫)

「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜 (朝日文庫)

 

今まで元号漢籍(中国の書籍)からの典拠だったわけだけど、安倍総理は早い段階から国書を典拠とする新元号を希望していたらしい。なんだかドキッとする。これも一種の「日本スゴイ」なのかもしれない。

 

この本は「日本スゴイ」という愛国心がどう戦争と結びついたのかを、膨大な資料をもとに考察していく本。というか、アホみたいな「日本スゴイ」言説に突っ込みを入れていく本。今こそ読むべき本だと思う。それにしてもこんな膨大な資料、どこで集めたんだろう。早川タダノリさんがスゴイ。

猫と言葉 手に入れたものと失ったもの

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最近の野良猫は警戒心が強い。

一定の距離を保ってこちらを観察して、気安く撫でさせるなんてことは絶対にない。こちらから近づこうものなら物凄い速さで逃げていく。昔はもっと人懐っこかった気がするけれど、どうしてこうなってしまったんだろう。寂しいなぁ。きっと心無い人が増えて、いじめられる機会が増えてしまったから人を怖がるようになったんだろうな。世知辛い世の中だな。

 

なんて思っていたのだけれど、待てよ、と気がつく。

 

もしかしたら、猫が懐かないのは自分に問題があるのかもしれない。

昔のピュアな自分と違って、もうおじさんになってしまった自分の心はどす黒く汚れていて、そんな心を猫は読み取っているんじゃないだろうか。それで警戒されているんじゃないか。

野良猫と対峙するとき、彼らはじっとこちらの瞳を見つめてくる。なんだか心が見透かされそうな気分になる。猫たちは瞳を覗き込む事で相手が純粋無垢か、それとも悪意や邪念を持った人間なのかを見極め、体を撫でさせるかを判断しているんじゃないだろうか。もちろん自分は野良猫に対して悪意を持って近づいたりはしていないけれど、それでも子供の頃の純粋無垢な心とは違う。猫はそれを読み取ることが出来て、それで安易に近づく事がなくなったんじゃないだろうか。

 

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猫に人の心を読み取る能力があるんじゃないかとは昔から漠然と思っていた。

第六感のような、胡散臭く言えば超能力のような力。これは猫に限った話ではなく、動物全般が持っている気がする。人智を超えた、何かしらの能力。

 

そう考える理由は簡単で、それは動物は言語を持っていないからだ。

 

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ドラえもんが四次元ポケットから取り出す道具の一つに「翻訳こんにゃく」というのがある。使用方法は極めて単純で、そのコンニャクを人や動物、もしくは宇宙人に食べさせるとあら不思議、その食べた相手の言語が理解できるようになるという未来の便利道具だ。

ただ、あのコンニャクには根本的な問題がある。アニメに登場する未来の道具にいちゃもんをつけることのナンセンスさは百も承知で言わせてもらうと、「翻訳こんにゃく」は外国人や宇宙人には使えても動物には使えない。なぜなら動物は言語を持っていないから。翻訳しようにも動物には言語体系がない。人間が聞き取る「にゃー」は猫にとっても「にゃー」であって、そこから感情は読み取れるかもしれないけれど、そこに言語が持つような法則はない。言語がなければ翻訳もできない。

(とはいえ、正確には動物も口頭言語を持っているらしい。でもそれは人間のように柔軟な言語体系ではない。)

 

 

動物が喋ることができない一方で、人間はいつの頃からか「言語」を手に入れた。

 

でもそれは、ただ手に入れただけなんだろうかと考えてしまう時がある。「言語」の代わりに失ったものはないんだろうか。振り返ってみれば、人間は進化の過程で色々なものを犠牲にしている。

例えば人間は二足歩行になったことで両手が自由になったけれど、代わりに腰回りが細くなり産道が狭まったから、赤ちゃんを未熟な大きさのまま産まなければならなくなった。脳が発達して賢くなったけれど、その代わりにエネルギー消費量が上がってしまい筋力を減らさなきゃいけなくなった。そうやって人類は、進化の過程で何かを手に入れる代わりに何かを犠牲にしてきた。

 

では言語は? 言語を手に入れた事で人間は何を失ったんだろう。

 

動物は鳴き声はもちろん、匂いや踊り、実際に触れ合う事でコニュニケーションをとる。イルカやコウモリは超音波を使う。超音波なんて今の科学であれば理解できるけれど、数百年前にはそれはテレパシーも同然だったかもしれない。

そんな未知のコミュニケーション手段が、見つけられていないだけで今も存在しているかもしれない。そして、そんな未知のコミュニケーション手段を、人間は言語を手に入れると同時に捨ててしまったのかもしれない。

動物が地震の前に騒ぎ出すのは何故?魚の群れが方向転換をするとき、先頭と最後尾が同時に同じ方向に向きを変えられるのは何故?オスの三毛猫は天気を読むことが出来るって本当?

動物の世界はわからない事だらけだ。猫がこちらを睨みつけている時、彼らなりのコミュニケーション手段でこちらの心を読み取っているのかもしれない。僕の心の中にはいろいろな邪念や言葉が渦巻いていて、そこに警戒心を抱いているんじゃないか。どうなんだろう。言葉でコミュニケーションをとってきた僕たちには、それはわからない。

 

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野良猫を見つけると、とりあえず鳥の鳴き真似をして注意を引いてみる。チュンチュンチュン。すると野良猫はこちらに気が付いて、じっと瞳を見つめてくる。にゃーん、こっちおいでー、と言ってみても動かない。数秒間見つめ合うと急にそっぽを向いてどこかへ行ってしまう。あーぁ。猫も人の言葉が理解できればいいのにな、そうすればもっと通じ合えるのにな、なんて思うけれど本当は違うのかもしれない。

本当は言葉なんてあるから猫と通じ合えないんじゃないか。

そう考えると、すごく残念だ。

僕たちが言葉と引き換えに捨ててしまったものは、多分、もう手に入れられない。

風化について

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「風化」という言葉はとても詩的だなと思う。

「風」に「化ける」と書いて風化。もちろん実際は風に化けているわけではない。雨風にさらされ、もしくは微生物に分解されてその姿を失う。土に還る。それを「風に化ける」と表現する。素敵な表現だと思う。詩的。

 

思い返せば、姿を失うことのメタファーとして風を用いる歌詞は多い。例えば、秋川雅史さんの『千の風になって』では死ぬことを「風になって」と表現している。他にも、前回のブログで触れたはっぴいえんどの『風をあつめて』もそう。東京オリンピックによって開発が進み、失われてしまった懐かしい東京の風景を「風」と表現している(と自分は解釈している)。

辞書にこそ載ってはいないけれど、日本語の「風」には「消失」という意味を内包しているんだろうと思う。

ちなみに「風化」は英語だと「weathering」だそうで、weatherは「天気」だから英語でも表現のニュアンスは似ているのかもしれない。

 

 

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人類は風化してしまうのか。なんて途方もない事を最近考えている。

人類が絶滅した後、人類の痕跡はいつまで残るのか。どのくらいで風化してしまうのか。人類の後に登場する知的生命体は、その痕跡を見つけることができるのか。

そんな、考えたところで何の意味の無い未来の話に思いを馳せている。

 

地球誕生からの46億年を一日に換算すると、人類の誕生は23時59分58秒頃だという。でも、それはあくまでホモ・サピエンスが誕生した数十万年前が23時59分58秒なのであって、文明を獲得した期間なんてものはほとんど「無」に等しい時間でしかない。その「無」に等しい人類の痕跡は、あと何秒、いや、0.何秒の間、地球上に存在することができるんだろうか。数秒後には風化して完全に無くなってしまうんだろうか。

 

人類の作ったほとんどの物は、時間が経てば風化してしまう。都市や道路は数百万年(地球にとっての数分だ)かかれば完全に風化してしまうらしい。

ではプラスチックはどうだろう。プラスチックは自然環境では半永久的に分解されないと言うけれど、その「半永久」は何年なんだろう。100年?1000年?一説によるとビニールで50~100年くらい、硬いプラスチックのカードだと1000年くらい分解にかかるそうだけれど、でもそれは完全に分解されて土に還るんだろうか?プラスチックの粉となって土に混ざるのか?その成分は未来の知的生命体によって発見されるんだろうか?わからない。

 

でも、と思い出す。

少なくとも僕たちは数億年前の恐竜の化石を発見できている。もっと前の生物や植物の化石も発見できている。風化せずに石化したものは発見できている。

 

 

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当然のことだけれど、ほとんどの人間は死んでも化石にはならない。

化石になるには様々な条件を満たさなければならなくて、一つの骨が化石化する確率は10億分の1だとも言われている。ノンフィクション作家のビル・ブライソン氏によると「全ての化石は奇跡」なんだそうだ。それくらい化石になるのは難しい。

では現代人はどうだろう。ただでさえ化石になるのが難しいのに、文明が起こって以来、多くの場合はその文化に従った形で埋葬されてきた現代人が化石になるなんてことがあるんだろうか。そして、もし仮に化石になったとして、地球時間で言うところの数十分間繁栄した恐竜ならともかく、2秒間繁栄しただけの人類が何億年後かに見つかるんだろうか。そして、そこに文明の存在を残す事ができるんだろうか。

これまで地球上に存在した全生物のうち、化石になっている生物種の割合は0.1パーセント以下であるとも言われている。人類はその0.1パーセントになる事が出来るのか。

わからない。確実に言えることは一つだけ。

人間を含め、ほとんど全ての死は「石」ではなく「風」になる。

 

 

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結局、人類の痕跡は地球のタイムスケールで見たとき、無いも同然なのかもしれない。

人間の全ては、残像にも残らない一瞬の明滅なのかも。

 

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しかし、物理学者のアダム・フランク氏は、人類の痕跡は未来に残る可能性があると言う。

その最も有力な痕跡は、なんと空気中の「炭素」。人類が化石燃料を使用することによって、空気中にある天然の炭素同位体と人工の炭素同位体の比率が変化するので、それを検出できれば人類の痕跡を見つけられる可能性があるんだそうだ。なるほど!(いや、正直ちんぷんかんぷん)

 

空気中の炭素か。

そう考えると「風化」という言葉が俄然リアルなものに感じる。

何億年も先の未来、その時代の科学者が風の中に含まれる炭素を測定したとき、そこに人類の痕跡があるかもしれないわけだ。風化した人類の痕跡が。

 

つまり、今は「風化」という言葉に詩的なニュアンスを感じているけれど、何億年も先には「風化」は写実的な表現になっているかもしれない。

ん、いや、そもそも何億年後に「風化」なんて言葉はないか。