ハナムグリのように

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ブラックホールへの憧れ

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今月「ブラックホールの撮影に初めて成功!」というニュースが世界を駆け巡った。興味津々に関連記事をいくつか読んでみたけれど、恥ずかしいかな、どれを読んでもよく理解できない。

根っからの文系で、元素記号すらまともに覚えられなかった自分には、ブラックホールを理解出来ないのも当然かも知れないけれど、そもそも質量を持たない光子が重力に影響されるとか、その重力で空間が歪むとか、そういった基本的なところすら理解出来ていない。物理学を基礎から勉強する気もないから(脳みそが追いつかない。それはたぶん“物理的”に)、きっと自分はいつまで経ってもブラックホールを理解出来ないんだと思う。

 

でもブラックホールって魅力的だ。何故だかすごく魅力を感じてしまう。

それはきっと、僕がブラックホールのその原理や成り立ちといった物理学的なポイントではなくて、全てを吸い込んでしまう「本当の闇」というものに文学的な魅力を感じているからなのかも知れない。

 

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数年前にイギリスで世界一黒い物質「べンタブラック」が発明された。光を99.9%以上吸収するべンタブラックは本当に真っ黒だ。いや、「黒い」という表現よりも、そこに「穴が空いている」と言った方がしっくりくる。


VANTABLACK - The Darkest Material on Earth

通常、物体に当たった光は反射する。もちろん全て反射するわけではなく、反射する色しない色は物質によって違っていて、そこで反射した色を僕たちはその物質の色として認識する。赤ペンが赤いのはそれ自体が発色しているわけではなくて、赤ペンに当たった光のうち赤色が多く反射しているから赤く見えるだけだ。黒い物、例えば起動していないスマホの画面は真っ黒だけれど、光の反射率もそこそこあるから画面を見ればそこに自分の顔が映る。そのことで画面が平らでツルツルなんだと認識する。光が反射することで僕たちは色や立体感を感じることができる。

それに比べてベンタブラックはほとんどの光を吸収してしまう。だからそこには色も立体感もなくて、視覚的には「無」だ。もちろんそれはとても特異なことだけれど、待てよ、と思う。

光が反射しないことを「無」に等しいと感じるのであれば、そもそも自ら光を発していない自分を含めた殆どの物質も「無」なんじゃないか。

 

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夜、寝る前に電気を消す。

その瞬間に部屋にある殆ど全ての物は色を失う。スマートフォンと消し忘れたオーディオインターフェイスの電源ランプ以外はモノクロになる。ダサいアイボリー色の天井も、ハンガーにかかったインディゴブルーのジャケットもみんな平等に色を失う。この時、僕は「インディゴブルーが黒く見えている」と認識するけれど、実はそれは正解じゃなくて、正しくは光を消したその瞬間にジャケットは「何色でもないもの」になる。本来の姿になる。

自ら光を発していない物質は、そもそも何色でもない。

赤いライトを当てたらジャケットは深いエンジ色に見えるかも知れないけれど、それはインディゴブルーがエンジ色に見えている訳ではなくて、その瞬間そのジャケットはエンジ色をしている。もっと正確に言うと、エンジ色の光子が跳ね返ってそれを僕が知覚しただけの話。

そして光を当てなければそれは「無色」だ。

そもそも僕たちはみんな無色だ。触れなければ立体感もない。光が当たらなければ何色にもなれない。外的な力が加わらなければ自らを定義することができない。モノとは得てしてそんな存在だ。

そう、この話はメタファーでもある。

 

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ブラックホールの魅力はそこにある気がする。

光が当たらなければ自分を定義できない僕(たち)にとって、その光さえも飲み込んでしまう「無」であり、そして一方では圧倒的な存在感を放つブラックホールは、一種の憧れなのかもしれない。達観した存在。解脱者として。

エジソンが電球を発明する以前の世界で太陽が信仰の対象となり得たように、光の溢れたこの世界でブラックホールは神に近い存在なのかもしれない。

 

 

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そういえば先日、生まれて初めて物理雑誌の『Newton』を買った。

特集は「無とは何か」で、それはもちろん哲学的な意味での「無」はなくて、物理的な意味での「無」について。例えば「真空」や「宇宙の外」についての話で、上に書いたような内容とも一切関係がない話だったけれど、それでもとても面白かった。物理素人からすると全体的に目から鱗の内容。「個体の氷や鉄のような物質であろうと、実際には“無”と大差がないといえます。」という一文と、その理由に感嘆する。