ハナムグリのように

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訛りについての話

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先日、知り合いとご飯を食べているときのこと、その知り合いが高校の恩師の話をし始めた途端、急に地元の訛りが出てきたので、驚いて思わず笑ってしまった。

「あっ、急に三重のイントネーションになったね」「えっほんと?気がつかなかった」「地元の話をすると訛っちゃうよねー、あははー」

まるで思い出と一緒に言葉もタイムスリップしてるみたいで面白かったのだけれど、そのとき自分で使った「訛り」という言葉に自分自身で何処か違和感を感じてしまう。「訛り」ってなんだろう。

実は、少し前に趣味で方言や訛りについて調べたことがあって、それ以来「訛り」という言葉がどうも腑に落ちないでいた。

 

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「言」に「化」と書いて「訛」。言葉が化けると書く。その漢字単体で「いつわる」や「あやまる」という意味があることを踏まえると「訛り」という言葉には、「正しいA」が訛って「B」になる、なんてイメージがある。ちょっとネガティブなイメージだ。

でも待てよ、と思う。

言葉においての「正しいA」ってなんだ?テレビ番組で「正しい日本語はどれ?」といったクイズをやっていてもいつも疑問に思う。それは標準語なの?ということは訛る以前の言葉は標準語なのか?

いやいや、そんなわけがない。

 

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そもそも僕たちが一般的に使っている標準語の歴史なんてものは、実はそんなに古くない。

いわゆる「標準語」は明治中期に国語教育を行うにあたって作られた第1期国定教科書『尋常小学読本』によって形作られたと言われていて、その基となったのは東京の教養層が使っていた山の手言葉。つまりは東京の方言だ。極論ではあるけれど、その時代そのタイミングで日本の中心が東京だったから、東京の方言、訛りが標準語になっただけとも言える。

ではそれ以前はどうだったのか。山の手言葉の成立は明治に入ってからで、それ以前、江戸の町では江戸弁が使われていた。ただそれは江戸の方言という認識であって、特に江戸時代の初期に関しては人口の流入が多く、いわゆる江戸言葉は確立されてなかった。江戸言葉として確立したのはあくまで江戸後期になって政治、文化が成熟してからの話だ。

では、さらに時代を遡るとどうだろう。言うまでもなく、江戸に幕府が置かれるまで日本の中心は京都にあった。鎌倉時代だって朝廷は京都にあった。つまり、日本は長きにわたって京言葉が中央語、つまり日本の標準語として機能していたことになるわけで、それに比べたら東京弁を標準語とする歴史の浅さといったらない。標準語が遷都や時代によって変化してきたことを考慮すると、現代の標準語なんて新参者と言っていい。

 

ちなみに、「訛り」を辞書で引くと、大体の辞書には「標準語とは異なる発音」と書かれているけれど、実のところ国語学の世界には公式・法的にも標準語は存在しないという。太平洋戦争以降、国による標準語政策は行われなくなったから、それは「共通語」と呼ばれるようになったそうだ。「標準」でなく「共通」。なるほど。僕を含めた地方民からすると、確かにそのほうが納得できる。

 

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柳田國男が『蝸牛考』で提唱した「方言周圏論」という方言分布の原則仮説がある。

方言や音韻などの要素は文化的中心から同心円状に伝搬するので、日本の僻地ほど古い言葉が残るという仮説だ。例えば、蝸牛の呼び名は近畿地方では「デデムシ」と呼ばれる。これは最も新しいとされる言葉で、古い呼び名である「ツブリ」は東北や九州で使われていて、そして中部地方や中国地方では「マイマイ」と比較的新しい言葉で呼ばれる。つまり、文化的中心であった京都に近いほど新しい呼び名が使われて、地方には古い呼び名が残っていることになる。これは言葉が日本で長きにわたって中心だった関西圏から同心円状に伝搬していったことの証明で、故に、僻地を探求することは古い日本の文化を知ることに繋がる、という話。松本清張の『砂の器』にも出てきたから知っている人は多いかもしれない。

方言周圏論が絶対的で全ての方言に当てはまるわけではないけれど、この仮説でいうならば、言葉は地方で訛るというよりも、中央で進化すると認識した方が正しいのかもしれない。

 

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石垣島宮古島では「花」を「パナ」、「人」を「ピト」と発音する。

何も知らずにこの話だけ聞けば、あぁこれは沖縄の訛りなんだな、花がパナって訛ったんだな、なんて思うかもしれない。でも実際は違う。この発音には日本語におけるハ行の歴史が大きく関係している。

ハ行の歴史は驚くほど浅くて、日本人がハ行を[h]で発音するようになったのは、実は江戸時代に入ってからだという。それ以前は両唇摩擦音の[φ]で発音していたのでイメージとしては「ファ」、そしてさらに遡ると奈良時代以前は[p]だったとされていて、よく「母」奈良時代まで「パパ」と発音されていたんだよ、なんて笑い話にされることがある。「パパ」→「ファファ」→「ハハ」と音韻が変化してきたわけだ。確かに言われてみると、平安時代の貴族って笑うときに「はははー」じゃなく「ふぁふぁふぁ」って笑うイメージがある。(って、そのイメージ合ってるのか?そんな忠実に歴史物って再現してるのか?笑)

つまり、琉球方言で「花」を「パナ」と発音するのは、古い日本語を使っているだけのことで、決して訛ったわけじゃない。言に化けると書いて「訛り」ならば、訛っているのはむしろ「花(ハナ)」と発音する僕たちの方だ。

 

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それで「訛り」ってなんだろう、と考えてしまう。

言葉は「標準語」と「訛り・方言」に二分されるのではなくて、全てが「訛り・方言」であり「進化した言葉」なんだと、その中の一つをたまたま「共通語」としてるんだと。それが正しい認識なんじゃないかと思う。

もちろん日本の歴史の中で「標準語」を定めたのは素晴らしい功績だと思うけれど、「訛り」という言葉の持つちょっとネガティブなイメージってどうにかならないかなぁ、なんて思うわけだ。これが僕の感じた「訛り」への違和感。

 

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で、だからなんだという話ではないのだけど。

 

ただ、よく思うのは、方言が漏れちゃう女の子ってすごく可愛い。普段は標準語で喋ってるのに、たまに地元のイントネーションが出てくるとキュンとしてしまう。京都弁とか三重弁とか、あと博多弁とかも。(名古屋弁は自分の地元だからか、あんまり好きじゃない。)

現代ではメディアの発達もあって言葉が均一化されてしまい、若い世代ではあまり方言を使う子が少なくなっていると聞く。でもそれって、個人的にはすごく寂しく感じてしまう。方言女子は絶滅してほしくないなぁ。もっと訛りをポジティブなものとして捉えてもらいたい。

って、二千字以上書いて最後が好きな女性のタイプの話って‥。