ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

雑記


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植物園に行ってからクシャミが止まらない。
どの花粉に反応したのか犯人が気になるところだけれど、それを突き止めるにはあまりにも容疑者が多い。花粉症患者的に植物園は治安が悪すぎる。


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こんな夢を見た。
どういう訳だか自分はモンスターに追われている。モンスターは黒く筋肉質で身長が2.5mくらいで(このサイズが妙にリアルだ)翼が生えていた。戦おうなんて気はさらさら起きなくて、とりあえず自宅に逃げ込むのだけれど、モンスターは窓ガラスを割って家に侵入しようとする。このまま家にいては殺されてしまうと判断して、ベランダから裏の家の屋根伝いに逃げるものの、いかんせん自分は靴を履いてない。必死に逃げようとしても小石を踏むたびに激痛が走って思うように走れない。最悪だ、捕まるのはもう時間の問題だ、と泣きベソをかきながら逃げる。 そんな夢だった。
どんな心理状態だとこんな悪夢を見るのか夢診断したいけれど、きっとそこにポジティブな答えはない。だからとりあえず、スニーカーが欲しかったからなぁ、なんて自分で判断して納得している。それ、間違ってないか?
夏っぽいスニーカーが欲しい。


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インターネット配信サービスの進歩で聴ける作品、観れる作品が身の回りに溢れていてむしろ困る。
音楽はApple Musicで聴き放題だし、映画や動画はNetflixYouTubeで見放題だ。さらにラジオはradikoでエリアフリータイムフリーで聴くことが出来る。現状で自分は読み物に関しての定額制サービスに登録はしていないけれど、これもきっと時間の問題だと思う。そのうち自分が求めるメディア作品の全てがPC、スマホから手軽にアクセス出来るようになる。その手軽さでは作品と触れ合えることの有り難みは無いに等しい。なんだか寂しい。
基本的には時代の変化には順応していきたいと思ってるし、そもそも各定額制サービスに加入している身分でこんなことを言うのもどうかと思うけれど、この現状はメディア作品の在り方、受け取り方として健全であるとは到底思えない。何の根拠も確証もないけれど、そのうちに何かが崩れそうな気がして怖い。
なんてボヤいていたら、オジさんだと言われてしまうんだろうなぁ。


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前野健太 / サクラ

サクラ

サクラ


年々、良い ‘うた’ を聴きたい、という欲が強くなる。

肝試しの思い出

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目が覚めると最近にしては珍しく肌寒い朝。反射的にストーブのスイッチに手を伸ばす。灯油ストーブの匂いがゆっくりと部屋を満たしていく。気まぐれな春。冬の残り香。
桜も散ってしまって、きっとこの寒気が過ぎ去ったら春本番なのかもしれないけれど、どうだろう。四月はそんなことを何度か繰り返す。気を抜いていると、また冷たい朝がやって来るかもしれない。季節のグラデーションはいつだって複雑だ。

身支度をして外出。陽射しが暖かい。花粉も多そう。メガネにしてこれば良かったと思いつつ、ポケットの中を手で探りながら、そこに目薬を確認して一安心。電車に少しゆられて、初めて訪れる小さなギャラリーへ。
廃虚の写真展。変わる廃虚展2018。廃墟は嫌いではないけれど、好きと言ってしまうと似非メンヘラ感が出る気がするのは考えすぎだろうか。それもあって廃墟が好きとはあまり言わないようにしている。廃墟を観て廻りたい気もあるけれど、それもちょっとなぁ。やっぱり似非メンヘラ感(なんだそれ)が出る気がする。でも、実際に廃墟展へ来場している人を観察してみるとわりと普通の人たちだった。やっぱり考えすぎなのか。廃墟、行ってみたいなぁ。
なんて事をぼんやり思いながら廃墟の写真を眺めていると、ふと、以前廃墟へ行ったことがある事を思い出した。大きなボウリング場の廃墟だ。もう10年以上前の話。先日、旧友とご飯を食べている時にちょうどその話になったんだ。

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高校からの知人とご飯を食べている時に、たしかホラー映画の話をした流れだったか、僕が幽霊を全く怖がらないという話になった。
「ほら、昔ボウリング場の廃墟にみんなで行った時だってお前、全く怖がってなかったじゃん。」と言われて記憶を遡ってみると、確かにそうだ。僕たちは学生の頃にボーリング場の廃墟へ行った。時間を持て余した夏の夜のこと。ボーリング場は肝試しには十分すぎるくらい暗くて大きかったけれど、あの時、確かに僕は全く怖がっていなかった。恐怖よりも興味が先行していた。
深夜の廃墟なんてB級ホラーで幽霊が現れる定番シチュエーションだ。でも廃墟に得体の知れない魅力を感じていた僕には、幽霊が出るか出ないかなんて関係が無かった。真っ暗なボウリング場を、怖がる知人を尻目にズンズンと進んでいた。崩れそうな木造ならまだしも、そこまで古いわけでもない鉄筋コンクリートのボウリング場。多少足元が見えなくても危険はないし、それに僕は幽霊を信じていない。そもそも廃虚と幽霊が僕には結びつかない。怖がる要素なんて何もない。それよりも廃墟を歩くのが楽しい。そんな気持ちでボウリング場の廃虚を歩いていた。それが知人には驚きだったらしい。
いや、こっちからしたらそんなにビビってる知人の方が驚きなんだけど。成人した男子だぞ。

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深夜の廃墟とはいえ、当然幽霊が出るわけでも何かしらのハプニングが起こるわけでもなく終わった深夜の肝試し。でもこの話には後日談がある。
僕らが肝試しをしたすぐ後にこの廃墟は取り壊されることになるんだけれど、その理由が恐かった。解体される旨は新聞にも掲載されていて、読んでみるとそこは大きく「アスベスト」の文字。そう、そのボウリング場の廃墟は人体に有害なアスベストが剥き出しになっていて、近隣へ飛散している可能性もあるという危険な廃墟だった。だから解体作業も慎重を極めて行わないと〜みたいな事が新聞には書いてあたと思うけれど、そんなことより心配なのは自身の健康状態だ。有害なアスベストを吸い込んじゃってはいないだろうか。物怖じせずズンズンと廃墟を闊歩していた事を今更ながら後悔した。幽霊なんかよりよっぽど怖いじゃないか。

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結局、幽霊みたいに実体のないものより、生きている人間が行った事の方ががよっぽど怖い。
これは廃墟の魅力について割と神髄を得ている話かもしれない。例えば10年前の僕達みたいに、「幽霊がいる」かもしれないと考える人はきっと廃墟好きじゃない。それよりも「生きた人間がいた」ことに魅力を感じる人が本当の廃墟好きなんだと思う。廃墟はファンタジーではない。写真展でもファンタジーの世界に飛び込んだような廃墟写真がいくつかあったけれど、僕が惹かれるのは派手さはないものの生々しくてリアルな廃墟写真だ。
かつて、そこに人が居たというリアル。それが伝わる廃墟写真はすごく魅力的だった。

雑記 最近聴いている音楽

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SNSのタイムラインが桜で満開になる。


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He was the archetype. Everything I wasn’t and I wanted to be.
   彼こそ鑑(アーキタイプ)でした。私でないものすべて、私がなりたいものすべてでした。


翻訳家の柴田元幸さんが編集している文芸誌『MONKEY vol.13』にボブ・ディランノーベル賞受賞講演の翻訳が載っていて、これはその中の一文。
青年期のボブディランが彼のスターであるバディ・ホリーに対して抱いた気持ち。この中の「私でないものすべて」という言葉に思わず、なるほど確かにその感じ!と肘を打ってしまった。
憧れであり理想だけれど、どう足掻いても絶対になることができない、何をやっても彼のようには出来ないと気づいたときに抱く「私でないものすべて」という感情。手の届かない絶対的な憧れへの気持ちがその一言で表現されていて、今更ながらディランは凄い表現者だなぁ、なんて感心してしまう。ほんと今更。

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最近聞いている音楽。



Still Woozy


純粋なブラックミュージックとは違うチープでインディー色の強いアーバンソウル。圧倒的なセンスで構築されたこのグルーヴと中毒性のあるユルさがたまらない。
曲単位でしか発表してないマイナーなミュージシャンの作品が聴けるのは音楽配信サービスの素敵なところ。



Ginger Root


演奏者が全員小太りでオタクっぽい感じが好感大。
音楽はもちろん、MVも自作という才能に溢れたCameron Lewのソロプロジェクト。エレピの音色が気持ちいレトロなシティソウル。


Winona Forever


なんて洒脱なインディーロック、というかシティポップ。
過去作はもっとギターがギャンギャン鳴っているんだけれど、今作はホーンも入ってAOR風味に。かっこいい。



Mildlife


ムーグシンセにダンエレクトロSilvertoneのギターでカッコよくない訳が無い。
どこを切りとってもセンスの塊。サイケでスペーシーなジャズファンク




The Magic Gang

3年くらい前からアルバムを心待ちにしていたUKブライトンのロックバンド。Weezerに感じる僕の苦手な部分を全部取り払ってブリティッシュ色を足したようなサウンド。今作はワーナー傘下のレーベルから出てるみたいで、そのせいか音がメジャー感が出てしまってるのが個人的には残念。昔のぐちゃっとした音のほうが好きだったなぁ。


そうそう、これくらいの時期。



Yo La Tengo / There's A Riot Going On


何故だかジョン・マッケンタイアがプロデュースした前作よりも(2000年前後くらいの)シカゴ音響派っぽさがあって凄く好き。
エンドレスでリピートしてしまう。




Superorganism / Superorganism


彼らの前身バンドが2、3年くらい前に来日したとき対バンしたことがあって、打ち上げで一緒に味仙の激辛ラーメンを食べたのは良い思い出。
素敵な人たちだった。

サモハンの話

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「道に迷ったことの無い人や知ってる道しか歩かない人、そんな人が一番この街の事を知らない」
なんて台詞を自分はよく口にする。何か無茶をして失敗してしまったり、文字通り道に迷ってしまった時に、苦し紛れの言い訳を装って冗談のように口にする。けれどもそれは言い訳でも冗談でもなく本心からそう思っていて、いつしか自分は本当にそんな行動、果てはそんな生き方をするようになっていた。道に迷ったり知らない道を歩く人生。わりと危険な、生き方の暗喩。
さらには実際に道を歩いている時にも、知らない道や先がどこへ通じているかわからない道を好んで歩くようになってしまったのだから困ったものだ。最近、よく道に迷って慌ててiPhoneで現在位置を確認することが多い。子供の頃はむしろ心配性で、知らない道を歩こうなんて微塵も考えなかったのだけれど。歳を重ねると考え方はこうも変わるのかと感心してしまう。

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歳を重ねると変わる、と言えば小説や映画の感じ方なんかはその変化が顕著にでると思う。学生の頃に読んで退屈に感じた小説も今読むとすごく面白かったり、子供の頃大好きだった映画がとても退屈に感じたりすることは多い。でも、それだって考えれば当然の事で、芸術作品全般、特に物語性を持つ作品は受け手の人生経験や考え方によって相対的に変化するものだから、人生のどのタイミングで観たり読んだりするかによって評価は全く変わってくるはずだ。絶対的な評価なんて下しようがない。評価した人の人生経験や考え方によって相対的に変わって然るべきだし、さらに言ってしまえば、その評価は作品に照らして浮かびあがった自分自身とも言えるかも知れない。
だからネット上で映画のレビューを見ていると、映画の本質よりも、レビューを書いている人の人間性や人生経験、趣味嗜好が透けて見えるようで、不気味でもあり面白くもある。

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年が明けたあたりから何本かジャッキー・チェンの映画を観ている。とりわけ80年代に作られたハリウッド進出前の作品を中心に数本を。最近では民法のゴールデンタイムにジャッキー映画を観る機会はめっきり減ってしまったけれど、90年代くらいまではゴールデン洋画劇場なんかで頻繁に放送していたから、僕と同じ30歳前後の世代には懐かしい作品が多い。『プロジェクトA』や『スパルタンX』に『サイクロンZ』。今観るとそのチープさに驚いてしまうような演出もあるけれど、それでもやっぱり面白い。正義の味方の勇姿。息を呑むアクション。良い意味でひねりのないストーリー。男の子の心を掴むには十分過ぎる内容だ。ジェットコースターのように時間が過ぎていく。
ジャッキー映画といえば当然ジャッキー・チェンが主人公の作品が多い。そのスター性は疑いようがなくて、僕自身も昔はジャッキーばかり目で追っていたように思う。けれども今になって観てみると、ジャッキーの脇を固める俳優陣の格好良さにも気付くことができる。特に魅力的なのはなんと言ってもサモ・ハン・キンポーだ。
サモ・ハン・キンポーはもはや説明不要、ジャッキー映画ではユン・ピョウと並んでおなじみのアクションスターだ。小太りでキノコ頭、お調子者でドジな三枚目キャラ。お世辞にもモテるとは言えない役柄だけれども、今になって観ると映画の中では重要な役を立ち回っている上にカンフーの腕前は抜群。注目せずにはいられない役者だ。しかも調べてみると『スパルタンX』や『サイクロンZ』ではなんと監督をしているし(ジャッキーが監督だと思っていた)、『プロジェクトA』では武術指導もしている。つまり自ら演出したピエロ役を華麗に演じきり、裏では武術指導、監督をして大ヒットカンフーアクションを作っていたわけだ。カッコよ過ぎるぞ、サモハン。昔はただのピエロだと思っていたけれど、お前が裏で操っていたのか。

そんなこんなで、自分の中でサモ・ハン・キンポーの株がぐいぐい上がっている中、彼が20年ぶりにメガホンをとった『おじいちゃんはデブゴン』を観た。

おじいちゃんはデブゴン [Blu-ray]

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主人公はサモ・ハン演じる認知症の退役軍人。話は近所に住む少女との心の交流を描いたヒューマンドラマであり、辛い過去を抱える彼と娘の家族ドラマでもあり、中国マフィアとロシアンマフィアの抗争を描いたアクションでもある。もちろんカンフーアクションもあればカーチェイスもある。あと大家さんの恋模様もあるな。とにかく、これでもかというくらいの要素を詰め込んだ大作。と思いきや、それを一時間半にキュッとまとめて、しかもジェットコースタームービーではなく、わりとゆったりしたカットの多い不思議な作品。一見するとテレビの2時間ドラマみたいでバランスが悪いなと思ってしまうけれど、いや、この感じが社会と距離を置いた痴呆老人の世界観をうまく現しているのかと気付くととても腑に落ちる構成。流血シーンが多くて昔のカンフーアクションを期待して観ると裏切られた感があるものの、これはこれで悪くはないんじゃないかと思える。

それにしてもサモ・ハンはかっこいい。過去のお調子者イメージから30年経って演じるのが無口な痴呆老人だ。それがカンフーで中国マフフィアもロシアンマフィアもボコボコにやっつけるんだからカッコいいに決まってる。もはや過去の3枚目キャラは伏線なんじゃないかと思うくらいのギャップ萌えがある。面構えも凛々しい。

大麻、プラハ、そしてバター

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バターが高すぎる。マーガリンに比べると倍ちかい価格だから、ついついマーガリンに手がのびる。お菓子を作る時だって本当はバターを使いたいのに妥協してケーキ用マーガリンを使ってしまう。もちろん無理して買えない金額ではない。買えなくはないけれど無理をする気もない。結局いつまでたってもバターが食べられないでいる。
そもそもこんなにもバターが高いのは日本くらいだという。海外では日本の3分の1以下で買えるから、外国人にはバターが高い食材だなんて印象はない。バター高騰の理由としては、日本では酪農家を守る為バターに巨額の関税がかかっている事、保存期間などの関係で製造工程が牛乳→生クリーム→チーズ→バターの順に行われる事、はたまたバターを取り巻く団体の利権問題などなど、ネットで調べると理由はわんさか出てくる。それらの理由からバターは品薄に、そして価格が高騰してしまう。そうかそうか、色んな理由があるのはわかった。わかったから、じゃ自分はどうしたらいいんだと、日々悶々としている。

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チェコマリファナに寛容な国だと知ったのはプラハ旅行を決めた後だった。マリファナ、またの名を大麻。日本では芸能人やその親族が逮捕されて時折話題にあがるドラッグ。当然違法薬物で、日本では大麻取締法(薬物取締法ではない)によって輸入はもとより流通、生産、所持、使用が厳しく規制されている非合法なドラッグだ。
一方、海外ではと言うと大麻解放の動きが盛んで、よく知られているところでは、オランダではコーヒショップで嗜好品としてマリファナの購入が可能。他にもスペインやウルグアイアメリカでも医療大麻なら29州、嗜好品としての大麻も8州で合法になってる。そもそも大麻はアルコールや煙草に比べて常習性も低ければ、身体への害も少ないという。だから規制する必要もないし、むしろコカインなんかのハードドラッグをやるくらいなら大麻を吸ってて下さいという考えで合法化している国もある。つまり世界的な認識では、大麻は絶対悪のイメージがあるドラッグでは全くない。過去にポール・マッカートニーが来日した際、大麻を所持していたがために逮捕されて公演が中止になった事があった。その時も「マリファナは危険だとは思わないし重い罪になるとは思わなかった。日本の法律を見直す必要があるんじゃないかなぁ。」なんて答えてる。これが38年前。そこから現在まで世界では大麻解放の動きが進み続けている。


大麻解放運動に対しての反論でよく目にする理論として「踏み石理論」というものがある。英語ではゲートウェイ理論。大麻そのものに害はなくとも、大麻をはじめとするソフトドラッグを使用するとそれが入口となって害のあるハードドラッグをやってしまう、だから大麻は禁止せねばならない。といった理論だ。大麻をやったことのある人がコカインに手を出す確率は大麻をやったことの無い人の〇〇倍だ、みたいなことを根拠としてる理論だけれど、これってなかなか無茶苦茶な理論な気もする。先の文章での「大麻」を「アルコール」に換えても「煙草」に換えても、もしくは「マクドナルドのビッグマック」に換えても同じくらいの倍率は出るだろうし、そもそも大麻ゲートウェイに位置づけてるのは今の社会の法と認識なんじゃないかとも思う。大麻には害がなく、医療用としては腰痛、消耗症候群、慢性痛、末期エイズ患者の食欲増進など多岐に渡って有用な薬である、といった認識の元なら決してゲートウェイにはなり得ない。つまり踏み石理論大麻を違法としている現状ありきの理論だ。それが原因で医療用としての大麻の使用(かつては日本でも喘息の治療品として売られていた)が遅れるのは如何なものかなと思ってしまう。
と、まるで大麻解放論者のように書いたけれど、僕自身は大麻どころかアルコールもタバコもやらないから、正直なところ大麻アルコール煙草の全てが違法になっても別にかまわない。


話を戻して、プラハの話。不思議なことにこれだけインターネットが発達している世の中にもかかわらず、プラハにおける大麻事情はとっても分かりづらい。大麻所持は犯罪と書いてあるサイトもあれば、個人仕様なら5株までの栽培、ジョイントなら20本までの所持が合法と書いてあるところも。街中で大麻キャンディーや大麻クッキー、大麻アイスが売られているといった写真がアップされていたりもして、それで実際のところはどーなの?という好奇心は募るばかり。好奇心が募ったうえで、実際に現地に赴く観光旅行は楽しい。レッツ、フィールドワーク。

はっきり結論から言うと、チェコにおいて大麻は非合法だった。ただし規制は緩い。5株までの栽培、ジョイント20本までの所持は駐車違反程度の罪にしかならないそうだ。でも一応、犯罪。もちろん販売もダメ。大麻アイスも売ってない。これはおそらくアブサンゴッホ太宰治が中毒になったという薬草系リキュールで「飲むマリファナ」といわれたりもする)を売っているショップが多いことから、そこで売っているアブサンアイスを大麻アイスと勘違いしたんじゃないかと。そして大麻キャンディーや大麻クッキーについて。これは本当。土産物屋やタバコ屋で普通に売ってる。クッキーやキャンディーはもちろん、大麻ティー大麻ハーブといった見た目がそのままの代物まで売っている。微量を製品に練り込ませる分には問題ないのか、もしくは幻覚成分であるTHCを含まなければ合法なのか、その辺りはグレーゾーンなのかわからないけれどとにかく売っている。ちなみにプラハ大麻を買う方法はヴァーツラフ広場を歩いている売人から購入するのが一番手っ取り早いらしい。ただ注意も必要で、そこで売ってる大麻は質が悪い上にボッタクリ金額なんだとか。もう少し賢く買うのなら、クラブでマリファナ持ってそうな人に声をかけることらしいけれど、それってハードル高いよなぁ。って、どれも犯罪よ、一応。

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それにしてもバター。
バターが高くて買えないからマーガリンばかり使っているけれど、アメリカでは逆にマーガリンが手に入らない。原因はトランス脂肪酸だ。マーガリンに含まれるトランス脂肪酸心筋梗塞のリスクを高めるとしてWHO(世界保健機関)も摂取を抑えるよう勧告している。それもあってデンマークオーストリアでは10年ほど前からトランス脂肪酸の規制を始めている。そして、ついにアメリカでは今年の6月を持ってトランス脂肪酸を含んだ食品が全廃されることになった。ワォ、つまりアメリカの法律はマリファナを許可して、マーガリンを非合法にしたって事だ。僕が妥協して泣く泣くマーガリンを買っているというのに、アメリカではマーガリンよりマリファナを手に入れることの方が容易なのか。くそー、いっそのことマーガリンがゲートウェイになればいいのに。(ありえない)
もしかしたら今後、日本の観光客がアムステルダムマリファナを吸うように、アメリカの観光客が日本でマーガリンを貪り食う未来がやって来るかもしれない。Awesome!日本じゃマーガリンが食べられる上に、バターよりも安価なのか!最高だぜー! とか言って。いや、それはないか。ないな。

道路に見る国民性

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外国を歩いていると道路一本一本にちゃんと名前がついていることに驚かされる。
大通りは当然のこと、小さな路地に至るまでほとんど全ての道に名前が付いている。だから住所も「○○通の○番」で表記出来るし、説明も割と簡単だ。この通りを西に行って○○通りで右に折れて○番です、でOK。スマートだ。海外で偉人や有名人の名前をとった通り名が多いことに今まで疑問をもっていたけれど、なるほど、単純に通りが多過ぎて名前を必要としているんだなと想像がつく。
それに比べると日本はそうでも無い。京都みたいな例外はあれど、ほとんどの街では大きい主要道路くらいしか名前なんて付いてない。その代りと言えるかはさておき、日本では別のものに名前が付いている。それは交差点だ。住所の説明も、○○の交差点を左に折れて○本目の道を右に曲がって‥‥と交差点を起点としてその先はアバウト。複雑なうえに番地も順列に規則性が薄い。最終的には、3階建ての青色の建物です!みたいに説明は落ち着く。だから日本に来た外国人は混乱するらしい。なんてはっきりしない無秩序な住所表記なんだ、と。

どちらの表記が正解だと言う気はないけれど、これは国民性がでているなぁと思う。道に名前を付ける外国人。交差点に名前を付ける日本人。going my wayに自分を貫ぬく外国人と、他者との関わりの中で自分の位置を理解する日本人。面白い。きっとそれぞれの良さがあって、それぞれの国民性にきっとフィットしてるんだろうなぁ。なんてことを歩きながら考える。


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チェコオーストリアに行ってきた。
家族からは自分の生活を「旅行に行ってるか風邪ひいてるかだね」と言われたけど、いやいやそんなことはない。他にも色々やっている。歯医者行ったりとか。

音楽「共有」の時代に寄せて

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高置水槽の中でも球体のタイプだけに漂う、えも言われぬレトロフューチャー感がたまらない。

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起床。氷点下の朝。
ここしばらく風邪をひいてる。インフルエンザではなかったものの喉、鼻、咳、熱、さらには口内炎と諸症状のオンパレード。昨日になってようやく回復してきたのだけど、そんなときに明日(つまり今日)朝から歯医者の予約を入れていた事を思い出す。キャンセルしようにも日曜日だったので、諦めて今日は朝から歯医者。風邪はほぼ治っているから問題ないと思っていたものの、先生の抑える頰の下には口内炎が。わりと地獄。いい歳して泣きそうだ。

夜、ストリーミングサービスで音楽サーフィン。便利な時代ね。

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音楽が「所有」するものから「共有」するものへ変わるといわれて何年経つだろう。
2018年現在、定額制ストリーミングサービスに加入している人は僕の周りに限っていえばそこまで多いとは言えない。もちろん自分よりも若い世代になると加入者の割合はもっと高くなるだろうし、その割合いは今後増えていくことも容易に想像がつく。事実、最近ではシングルが数千枚売れたらトップ10に軽くチャートイン出来てしまうという。それくらいCDを買っている人は少ない。もはやCDなんてファンアイテムでしかないのかもしれない。
その一方で僕自身はCDやレコードといったメディアが好きだから、今だに月に何枚もCDを買っていた。ストリーミングサービスはこれまでに買ってきたCDやレコードを否定されるようで、あまり好ましく思っていないというのが本音だった。それに音楽そのものやアーティストへの影響も危惧する部分があるし。でも時代は流れる。このままじゃ時代についていけなくなってしまう恐怖も少し抱いているし、それに周りにちらほら加入する人が増えてきたこともあって、この度、意を決して(そんなたいそうな話ではないか)ストリーミングサービスに加入する事にした。月額980円。安い輸入盤くらいの金額。
で、これが結構な衝撃だった。ある程度想定はしていたものの、実際使ってみると自分の中の価値観が大きく崩れていくのが分かった。あぁこりゃ音楽文化が変わっていくなぁ、と。途端に自分の部屋のCDラックがものすごく滑稽なものに思えてしまう。すごい時代になったもんだ。いくつかの点でこれからの音楽は変わっていくに違いないと確信する。

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僕が中学生だった2000年頃、くるりを聴いている同級生なんて周りにいなかった。確か2ndの『図鑑』が出たあとで「ワンダーフォーゲル」や「ばらの花」がリリースされた頃。他にもキリンジスーパーカーナンバーガールだったりが後に名盤と評価される作品を次々にリリースしていて、振り返ってみると今とは比べ物にならないほど音楽シーンが盛り上がっていた時代だ。けれども、いくら音楽シーンが盛り上がっていたとはいえ中学生くらいではその手の音楽に触れている子は少なくて、僕がくるりが好きだと言っても共感してくれる子なんていなかった。ただ、その事には寂しさを感じつつも、一方で優越感を感じていたことも確かだ。この音楽を俺は理解しているんだぞ、こんなカッコいいアルバムを持っているんだぞ、と。足が速いよりも勉強が出来るよりも、最新のロックバンドのCDを持っていることの方がかっこいいと思っていた。中学生にとっては大金である3000円を握り締めて厳選したアルバムをタワレコへ買いに行って、買ったCDはブックレットを読みながら何回も繰り返し聴いていた思春気。ひとつのアルバム、アーティストへの思い入れが大きかった。その世代からすると、定額制ストリーミングサービスは今までの価値観を大きくひっくり返すような存在だと思う。
きっと今の中学生にとっては、スマートフォンの中で最新のヒット曲も通好みのロックバンドも50年前の隠れた名盤もすべてが等距離にあるはずだ。どんな音楽へも恐ろしいほど簡単にアクセス出来て、国も時代も関係が無い。聞こえは良いけれど、それは果してメリットだけなのかと疑問も産まれる。昔、小沢健二おしゃれカンケイに出演したときに「沢山の恋愛をしてしまうと、ひとつひとつの恋愛の価値が下がってしまう」なんてことを話していたけれど、この状況はまさにそれで、当時の自分が抱いていたようなアルバムやアーティストに対しての気持ちは今では持ちづらくなっていると思う。ワンクリックで出会える音楽に思い入れも何もない。この状況はライトユーザーこそ増えるものの、コアな音楽ファンを生み出しにくいはずだ。簡単にアクセスできるものにコアな文化は生まれない。苦労して探究して、そうして人はコアな部分に辿り着きハマっていく。そしてそんな人間が新しく音楽を作っていく。つまりこの情況は未来のミュージシャンの質にも影響するんじゃないかと思う。これは間違いなく。
他にも変わっていくであろうことは沢山ある。たとえばアルバムの存在。ストリーミングサービスの仕組みでは、曲が一回再生される毎にその時のレートに応じて幾らかがレコード会社、アーティストへ支払われる事になる。ということを踏まえると、アルバムとしての作品作りをするよりも、バズって多くの人に再生して貰える一曲を作る方が間違いなくビジネスになる訳で、その仕組みの中ではアルバムを作ったところで後半の曲の再生頻度は間違いなく少なくなるはずだ。ワンクリックで作品が聴けるということは、ワンクリックで他の作品へ移ることも可能という事。つまり数曲聴いて満足したら別の作品へ簡単に移る事ができてしまう。垂れ流して聴きたいのならば、それ用のプレイリストを各自で作れてしまう。結果、アルバムサイズで作品を作っても後半まで辿り着くことは多くない。最初の2、3曲だけ聴いて、はい次、みたいな。実際、自分のiTunesを見てみてもアルバムの後半は再生回数が少なくなっている。再生されないということはつまりお金にならないという事で、それであればもっとコンパクトにシングルか5〜6曲くらいのミニアルバムにまとめた作品の方が販売側からすれば効率が良いと判断されるだろう。つまり、60年代半ばから脈々と受け継がれてきたトータル性を持ったアルバム芸術が崩壊するかもしれない。アルバム単位では重宝される箸休め的な小品は無くなるかもしれない。

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と書いていて、あれ?と思う。なにやらネガティブな書き方をしてしまったけれど、こういった音楽の変化ってただの原点回帰なんじゃないか?

60年代に様々なロックバンドがアルバム単位での作品性を追求する以前、アルバムはシングルの寄せ集めでしかなかった。シングルの時代だ。思い返せば、アルバム単位での作品性を考え始めたのなんてたかだかここ50年くらいの話でしかない。さらに言えば、それ以前は多くの人にとって音楽はラジオから流れてくるものでしかなく、それはむしろストリーミングサービスよりもライトな聴き方と言える。さらに遡ってみると、今から百数十年前にエジソンが蓄音機を発明するまで音楽はライブでしか存在しなかった。それこそ「所有」ではなく「共有」の時代。
音楽の進化はいつだって音楽メディアの変遷とともにあった。その時代のメディアに合わせた音楽が進化していく。ライブに適した音楽、ラジオに適した音楽、レコードに適した音楽、CDに適した音楽。あるいはウォークマンに適した音楽、iPodに適した音楽、そしてストリーミングに適した音楽へ。音楽とはそうやって進化していくもの。その変容に対して良い悪いの評価をするのはナンセンスな事なのかもしれない。CDやレコードが消えていくことに寂しさこそ感じても、何も危惧することはなくて、長い音楽史の中で見たらここ数十年の「所有」の時代がたまたま色濃かったなぁくらいの話。むしろここ数十年が異常だったと言えるのかもしれない。
結局、これからも音楽の進化は、エジソンが「メリーさんの羊」を吹き込んだあの瞬間から始まったビッグバンの中にある。そこからは抜け出せないし、きっと正解も間違いも無い。だから抗う事なく、その宇宙の広がりを楽しめば良いのかな、なんて思う。