肝試しの思い出

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目が覚めると最近にしては珍しく肌寒い朝。反射的にストーブのスイッチに手を伸ばす。灯油ストーブの匂いがゆっくりと部屋を満たしていく。気まぐれな春。冬の残り香。
桜も散ってしまって、きっとこの寒気が過ぎ去ったら春本番なのかもしれないけれど、どうだろう。四月はそんなことを何度か繰り返す。気を抜いていると、また冷たい朝がやって来るかもしれない。季節のグラデーションはいつだって複雑だ。

身支度をして外出。陽射しが暖かい。花粉も多そう。メガネにしてこれば良かったと思いつつ、ポケットの中を手で探りながら、そこに目薬を確認して一安心。電車に少しゆられて、初めて訪れる小さなギャラリーへ。
廃虚の写真展。変わる廃虚展2018。廃墟は嫌いではないけれど、好きと言ってしまうと似非メンヘラ感が出る気がするのは考えすぎだろうか。それもあって廃墟が好きとはあまり言わないようにしている。廃墟を観て廻りたい気もあるけれど、それもちょっとなぁ。やっぱり似非メンヘラ感(なんだそれ)が出る気がする。でも、実際に廃墟展へ来場している人を観察してみるとわりと普通の人たちだった。やっぱり考えすぎなのか。廃墟、行ってみたいなぁ。
なんて事をぼんやり思いながら廃墟の写真を眺めていると、ふと、以前廃墟へ行ったことがある事を思い出した。大きなボウリング場の廃墟だ。もう10年以上前の話。先日、旧友とご飯を食べている時にちょうどその話になったんだ。

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高校からの知人とご飯を食べている時に、たしかホラー映画の話をした流れだったか、僕が幽霊を全く怖がらないという話になった。
「ほら、昔ボウリング場の廃墟にみんなで行った時だってお前、全く怖がってなかったじゃん。」と言われて記憶を遡ってみると、確かにそうだ。僕たちは学生の頃にボーリング場の廃墟へ行った。時間を持て余した夏の夜のこと。ボーリング場は肝試しには十分すぎるくらい暗くて大きかったけれど、あの時、確かに僕は全く怖がっていなかった。恐怖よりも興味が先行していた。
深夜の廃墟なんてB級ホラーで幽霊が現れる定番シチュエーションだ。でも廃墟に得体の知れない魅力を感じていた僕には、幽霊が出るか出ないかなんて関係が無かった。真っ暗なボウリング場を、怖がる知人を尻目にズンズンと進んでいた。崩れそうな木造ならまだしも、そこまで古いわけでもない鉄筋コンクリートのボウリング場。多少足元が見えなくても危険はないし、それに僕は幽霊を信じていない。そもそも廃虚と幽霊が僕には結びつかない。怖がる要素なんて何もない。それよりも廃墟を歩くのが楽しい。そんな気持ちでボウリング場の廃虚を歩いていた。それが知人には驚きだったらしい。
いや、こっちからしたらそんなにビビってる知人の方が驚きなんだけど。成人した男子だぞ。

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深夜の廃墟とはいえ、当然幽霊が出るわけでも何かしらのハプニングが起こるわけでもなく終わった深夜の肝試し。でもこの話には後日談がある。
僕らが肝試しをしたすぐ後にこの廃墟は取り壊されることになるんだけれど、その理由が恐かった。解体される旨は新聞にも掲載されていて、読んでみるとそこは大きく「アスベスト」の文字。そう、そのボウリング場の廃墟は人体に有害なアスベストが剥き出しになっていて、近隣へ飛散している可能性もあるという危険な廃墟だった。だから解体作業も慎重を極めて行わないと〜みたいな事が新聞には書いてあたと思うけれど、そんなことより心配なのは自身の健康状態だ。有害なアスベストを吸い込んじゃってはいないだろうか。物怖じせずズンズンと廃墟を闊歩していた事を今更ながら後悔した。幽霊なんかよりよっぽど怖いじゃないか。

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結局、幽霊みたいに実体のないものより、生きている人間が行った事の方ががよっぽど怖い。
これは廃墟の魅力について割と神髄を得ている話かもしれない。例えば10年前の僕達みたいに、「幽霊がいる」かもしれないと考える人はきっと廃墟好きじゃない。それよりも「生きた人間がいた」ことに魅力を感じる人が本当の廃墟好きなんだと思う。廃墟はファンタジーではない。写真展でもファンタジーの世界に飛び込んだような廃墟写真がいくつかあったけれど、僕が惹かれるのは派手さはないものの生々しくてリアルな廃墟写真だ。
かつて、そこに人が居たというリアル。それが伝わる廃墟写真はすごく魅力的だった。