ハナムグリのように

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潮干祭 「祈り」の本質

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いつの頃からか祭りが好きになった。
それも地域に根差したような古い祭りが。花火大会や露店が中心のイベント的な祭りではなくて、その地域の人たちにとって「ハレとケ」でいうハレ(=非日常)であることが感じられるような祭りが。
昔は祭りなんて別段好きでもなくて、むしろ人が集まるような場所は毛嫌いしていたのになぁ。

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少し前の話になるけれど、愛知県は知多半島亀崎で毎年ゴールデンウィーク時期に行なわれる潮干祭に行ってきた。
この祭りのことを知ったのは2年ほど前。自転車で知多半島のお遍路参りをしていた時に町中に貼ってある潮干祭のポスターを見たのがきっかけだ。亀崎の町並みは古く趣きがあって、海沿いには人工的に造られたであろう小さな浜辺。その光景にどことなく違和感を覚えた記憶がある。その数日後だっただろうか、NHKで放送されている『新日本風土記』で偶然にも潮干祭が取り上げられていて、それを観て以来いつか行ってみたいと思っていた。


この潮干祭には珍しい特徴がある。それは山車だ。山車が町を練り歩いた後、なんと海へ入水する。江戸時代に作られた5台の山車が男達に曳かれて海へ入っていくこの「海浜曳き下ろし」は、全国的に観てもとても珍しい儀式なんだそう。しかも、山車が古いものだから海に入ると壊れてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしてしまい、それがまたスリリングで見応えがある。僕はこの祭の存在を知らなかったけれど、国の重要無形民俗文化財にも指定されているし、ユネスコ無形文化遺産への登録も決まっているから、そこそこ有名なお祭りなのかもしれない。なんで知らなかったんだろう。

それにしても、この祭で感心するのは、山車を曳く男衆のその数の多さだ。高齢化や過疎化で全国的に祭の人出不足が懸念されている昨今、この小さな海辺の町でこれだけの参加者がいることには驚かされる。なにせ、山車を曳くのは誰でも良い訳じゃない。山車は全部で5台。地縁で定められた「組」がそれぞれの山車を受けもち、さらに山車を曳くことはその血縁しか許されないという。そして今の時代では珍しく女人禁制もしっかり守られている。そういった古くからの慣例がしっかりと厳守された上での、この参加者の多さだ。誰でも参加できるわけでもないのに、この多さ。いや、というよりも古くからの「しきたり」が守られいるが故の多さなのかもしれない。きっとこの祭の「しきたり」が持つ結束力のお陰で、若者もこの地から離れることが少ないだろうし、外へ出ていった者も祭時期にはちゃんと帰省して参加するんだろう。素晴らしい。今更ながら祭祀の持つ意味を考えさせられる。



多くの日本人の中には「仏教」と「神道」という二つの宗教観が根づいている。この二つの違いについて、その目的の面でよく言われるのが仏教は「個人の魂の救済」を目的としていて、一方で神道は「コミュニティ、共同体の保持」を目的としているということ。
亀崎潮干祭を見ていると、神道としての祭祀がしっかりと機能していることがわかる。

そもそも潮干祭りは「室町時代の応仁・文明年間の頃に亀崎に来着した武家らの発案により、荷車に笹を立て幕を張ったものを神官の指示によって曳き回したのが起源とされている」(wikipedia)という、その目的もよく分からないような祭りだけれど(失礼)、この祭の本質はそこじゃない。血縁や地縁のつながりを重視する祭を行う行為そのものが、コミュ二ティを守る=神道の目的を果たしているんだと思う。祭のお陰で血縁や地縁の結束力を強め、結果としてそれは亀崎の土地、コミュニティを守ることにも繋がる。
これは祭の後に調べて知ったことだけれど、この潮干祭が行われる神前神社は東海地方では数少ない「子供の神様」を祀る神社なんだそうだ。そのことからも、この土地の人達がいかにコミュニティを大事にしているかが伺える。



祭祀を観ていると「神に祈る」ということの本質が見えてくる気がする。こんな事を言ってしまったら怒られるのかもしれないけれど、神様に祈ったところで現実的に神様が何か行動を起こしてくれることはない。祈ることの目的は「祈る」という行為がもたらす二次的な何かで、それが祈りの本質だ。
これはわりと昔から考えていることで、いわゆる”宗教的”な感覚を持っていない僕にとって「祈る」ということは「理想の未来を想像する」ことと同義だったりする。理想の未来を想像することで現実的に行うべきことの筋道が立てられる。神様という理想を引っ掛ける為のハンガーがあると、型崩れせずに全体像が見える。それが祈りの本質。
あるいは、祈ることなんて気休めでしかない、というならば「気を休めること」が祈りの本質なのかもしれない。
そして亀崎潮干祭りにおいては、血縁地縁を大事にした祭祀を行うこと、その行為がコミュニティを守ることに繋がる。
祈りや祭祀には、それを行う当事者すら意識していないレベルで理屈っぽい意味があるんだと思う。

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知多半島の東の付け根、地図で見るとかなり奥まで切れ込んだ場所にある亀崎は、浜辺から一望する限り目の前にある水辺が海のようには全然見えない。川だ。ちょっと大きめの川。それでも風が吹くと、その中に薄っすらと潮の香りが混ざっていて、ここが海辺であることを思い出させる。
潮の香りで一足早く夏がやって来た気分になる。 5月の晴れた日。 夏はもう、すぐそこまで来てる。