ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

数ある理由の、きっと、ひとつ

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全ての出来事は「原因」と「結果」に分けることができる。
もちろんそれはどこから見るかによって原因になることも結果になることもあるけれど、はっきりしているのはそれを判断出来るのは未来の自分だけだってことだ。あの出来事は「原因」だったのか、それによって引き起こされた「結果」だったのか。それは今の自分には分からないし、きっと分かる必要だってあんまり無い。正しい判断なんて出来っこない。
今出来ることがあるとすれば、僕が生き続けて人生を歩んでいく限り、全ての出来事は良い結果につながる原因であれと願うことだけなのかもしれない。

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昼すぎ起床。割と暖かい。雲ははるか遠くに。
昨晩は以前お世話になった先輩が送別会を開いてくれたのでそれに参加していた。職場の送別会は一ヶ月ほど前に終わったけれど、今回は同じ会社だけれど別の職場で働いている方々、過去の上司や全く会ってなかった同期とか。わざわざ県境を越えて会いに来てくれたりして本当に申し訳ない。と思い、そのことを口にすると「申し訳ない」じゃなくて「ありがとう」でしょ、と訂正される。その通り。本当にありがとう。飲み会はあまり得意ではないけれど、それでも楽しく感謝の気持ちが尽きない飲み会だった。一度お開きした後も帰り道が同じだった数人で急遽二次会に繰り出して深い時間まで。また飲もうね!なんて口々に言ってくれるけれど、実際同じ会社でもあまり会ってなかったのに、会社辞めてから飲み会開くなんてことあるのかなぁ、なんてぼんやり思ってしまう。でもこれは実際に会う会わないじゃなくて、今別れを惜しんでくれてることが重要なのかもしれない。本当に感謝は尽きない。
ぼんやりしていたら夕方。歩いて近くのスーパーマーケットへ。昨晩も散々会社を辞める理由を尋ねられたけれど、どれもはっきりした答えが言えずにいた。実際、はっきりした一つの理由なんてないから仕方ないのだけれど。多分理由は無数にある。それは自分でも全部を把握できていないくらいに。でも、とりあえずは把握している理由だけでも一つずつ解決していく生き方をしなきゃいけないなぁ、なんてぼんやり考えながら買い物。
100均で駄菓子を買う。よっちゃんイカが美味しい。

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今年に入ってから親族が二人亡くなった。
一人は父方の祖母で、しばらく寝たきりだったし年齢の事も考えれば大往生と言っていい。 で、もう一人は従兄弟。35歳独身男性。交通事故だった。
人はいつ死ぬかわからない。そんなことは理解している。理解しているけれど誰だって自分が明日死ぬなんて考えて生きてはいないし、正直、生きているうちくらい死ぬことなんて考えたくない。でも今回ばかりは他人事とは思えなくて、考えずにはいられなかったし、考えなきゃという気持ちにもなった。悲しいのはもちろん、それに加えて恐怖にも似た不思議な感情を抱く自分がいた。
35歳、彼はやりたいことは出来ていたかなぁ、まだやりたいことがいっぱいあったんじゃないかなぁ、なんて思ってしまう。そんなこと思われても故人だって困るだろうけれど、その思いが自分に対しても向けられていることは間違いなかった。自分を重ね合わせずにはいられなかった。もし自分が明日死んでしまった時、良い人生だったと思えるのか?周りにもそう思ってもらえるのか?そんなことを考えてしまう。答えはもちろんノー。いつも仕事が嫌だなぁとか、ゆっくり海外旅行したいなぁなんてぼやいてる自分しか頭に浮かばない。それはきっと5年後も10年後も変わらない気がする。それがたまらなく怖くなった。
なら一層の事、仕事を辞めてみる。というのは無くはない決断かもしれない。これが良い方に転ぶとか悪い方に転ぶとかでは無く、もし近いうちに僕が死んだとしても「あいつは若くして死んだけれど好き勝手生きてたから悔いはないよね」なんて言ってもらえる人生になるんじゃないか。残された人の心の逃げ道みたいなものは必要だと思うし、それはもちろん僕自身にとってもそう。常に自分が納得できる人生でいたいと、もしそれが辛くても自分で選んだんだからしょうがないと思える人生になりたいと、心からそう思った。
以前、僕はこのブログでこんなことを書いていた。
「世の中のほとんどは惰性で動いているな。 と、それは悲観でも諦めでもなく、ましてや言い訳なんかではなく、それが事実なんだと感じながら」
今になって思うと、それはやっぱり言い訳だったんじゃないかな、なんて。

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上記の話は僕が仕事を辞めた数ある理由のうちの、きっと、ひとつ。