ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

ドライブの倫理

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「墓穴(ぼけつ)」という言葉を読んだ時に、ふと「穴」は「けつ」と読む事を改めて認識して、ってことはつまり「けつの穴」は「穴の穴」なのか、ということは、「けつの穴」と「寺門ジモン」は言葉として同じ構造なのか!
なんて、心の底から下らないヒラメキをしてしまったのはきっと暑さのせいだ。
寺門ジモンさん、ごめんなさい。

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起床。梅雨も明けて夏本番。

数週間前に更新した運転免許証が出来上がっている頃なので、受け取りに警察署へ。写真写りは可もなく不可もなく。いつもそう。写真写りは良くも無いけれど、だからと言って悪くも無い。
よく、私写真写り良く無いんだよねー、なんて嘆いている人がいるけれど、多くの場合はそうでも無いと思う。結構、そのまんま写っている。自分のこと頭の中で美化しすぎじゃない?と、配布された卒業写真を見て自分の写りの悪さを嘆いていた同級生の西脇君に対して思ったことをふと思い出した。お前そんなにイケメンじゃねーよ、と。
でも頭の中で自分を美化できるくらいの人間の方が、きっと上手に生きていけるし、大成しやすいんだろうなぁ、なんて。これは別に皮肉じゃなくね、ほんとそう思う。(皮肉じゃ無いけれど負け惜しみではある)

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自慢じゃないけれど免許証はゴールドだ。取得以来、無事故無違反を維持している。
まぁ理由は簡単で、それは僕がペーパードライバーだからというだけのことだけど。運転していないから事故することもない。もう5、6年は運転してないと思う。だから今までは無事故無違反だけれど、今すぐに運転しろと言われたら人を跳ねてしまいそうでちょっと怖い。現状、運転しなくても不便なく生きていけるから問題はないものの、もしもの時や将来のことも考えて少し練習しなきゃとも思ってる。

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それにしても、趣味でドライブをするという文化に、ふと違和感を感じてしまう時がある。(この話、長くなりそうだ)
語弊を恐れずにいうと「趣味のドライブは人を殺す可能性のある趣味なんじゃないか」という素朴な疑問を抱くときがある。人を殺す可能性のある趣味。その事実が心の片隅に少し引っかかる。それはもちろん自分がペーパードライバーで、運転が不慣れであるが為に人を轢き殺してしまう心配があるからそう感じるんだと思うのだけれど、よくよく考えると恐ろしい。


自動車は疑いの余地なく、賞賛されるべき人類の叡智。自動車によって社会は迅速に効率よく回り、今日のように発展することができた。自動車によって救われた命は数え切れないし、得られた成果や感動は無限にある。馬に取って代わる素晴らしい移動手段、運搬手段だということに異議を唱える人はいないと思う。同意。もちろん僕もそう思ってる。
でもその一方で、自動車事故によって日本だけでも年間3600人の人が亡くなっている。それを理由として、だから車はダメ、というような話ではない。趣味としてのドライブに限った話。「趣味としてのドライブ」の裏に「人を殺す可能性」が潜んでいることは、趣味でドライブをする文化が浸透している現代だと倫理に引っかかることはない、という話。そう、だから僕も別にそれが倫理的に問題があるとは思わない。だって、この文化の中で生きているから。
ロッククライミングやパラグライダー、海水浴や渓流下りなどなど命の危険がある趣味は沢山ある。でもそれは自分の命。人の命を危険に晒す趣味ってのはとんと思い浮かばない。強いて言うならタバコくらいか。副流煙による健康被害は「人を殺す可能性」と言えるかもしれないけれど、それだって近年では随分と倫理に引っかかってきた。
古い観光バスに乗ると座席に灰皿が付いていて驚く時がある。ひと昔まではそれが車内だろうと、屋内でタバコを吹かすなんてのは普通のことだった。今では考えられないけれどタバコのTVCMもゴールデンタイムにがんがん流れていた。社会の考え方は変わる。タバコにおける昔の常識は今の倫理観では考えられない。じゃあ、絶対的な倫理ってなんだろう。結局、倫理なんてのはその時代、その地域の文化の中でしか機能しないのかもしれない。
例えば、趣味で動物を殺す、なんて言ったら今では頭がおかしいと思われるかもしれない。でもイギリスでは古くから貴族の趣味として狩猟が行われていた。害獣駆除でなくスポーツとしての狩猟。それも割と最近まで行われていて、イギリスで狐狩り禁止法が成立したのは2004年だ。狐狩りというスポーツが文化としてあるから、キツネを趣味として殺すのは倫理に引っかからなかった。あるいは引っかかっても許されてた。
そんな話は無数にある。ネパールでのクマリや中国での纏足、アフリカでの女性器切除も今では人権侵害と言われるけれど、その文化の中では成立していて、その文化のその時代の中での倫理には引っかかっていなかった。死刑制度や女性差別もそうかもしれない。ピグミー族がその小ささ故に他の部族に食べられてしまうのだって、大きな枠で見たらアフリカの文化、倫理観の中では成立していたのかもしれない。そして、それを見過ごせないのも現代の倫理観なのかもしれない。倫理観て何なんだ、いったい。
いやいや、そうは言っても人間の命に関わることは時代や文化にかかわらず倫理に引っかかるよ。それは絶対的な倫理として人の心にあるから規制されるべきだよ、という人も多いかもしれない。そう、その通り。だから趣味としてのドライブの事が頭に引っかかる。年間3600人が亡くなり、操作するには免許が必要である機械を「趣味」で扱う事に恐怖感や倫理観の介入はない。趣味としてのドライブが文化として確立されているこの世界ではスルーされる話。これは問題提起じゃなくて倫理観についての話。何度も言うけれど、僕だって恐怖こそあれど趣味でのドライブが倫理的に問題があるとは思ってない。


僕が知りたいのは、倫理観は文化の内側にあるのか外側にあるのか、という事。絶対的な倫理なんてものはあるの?これは倫理学なの?哲学なの?どのテキストに答えは書いてあるの?


と、そんな事を足りない頭で考える。不毛な話。こんな無駄な事を考えてしまうのもやっぱり暑さのせいなのかもしれない。今日の最高気温は38℃の予報。気を許していると、脳みそも溶けてしまいそう。