ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

#title {color:#666666;}

      • -


言い訳ばかりして反省しない人は成長しないな
と、職場の先輩を見ながら思う。
反面教師としてはとても優れた人なのか。自分も気をつけよう。

      • -


起床。 実家。 乾いた秋晴れの空。
昨日は仕事関係のセミナーに出席する為に地元に帰っていて、そのまま実家で一泊してからアパートへ帰る予定。セミナーは3つ行なわれた講義のうち2つが理解できなくて、残りの1つは理解できたけれどとても眠かった。まぁみんなそんなもんだろうな、と思いながら無難にやり過ごす。眠い。
後、久々に家族で食卓をかこむ。テレビを観てたわいもない会話をしながら食事をして、食後はお菓子を食べながらダラダラと過ごす。この感じ、久々だなと思う。長い事こんな時間を過ごしていなかった気がする。後、入浴して就寝。ポーラのシャンプーの香りは祖母の香り。

昼近くに起床。早々と支度を済ませて家をでる。新幹線に揺られてアパートへ。途中、降りる予定のない駅で下車してその街の美術館へ行く。前から観に行こうと思っていた「絵本原画の世界2013」。「ぐりとぐら」や「ごろごろ にゃーん」「ジオジオの かんむり」など福音館の「こどものともシリーズ」を中心にした原画展。鑑賞中に「おおきなかぶ」を眺めながら、大人数でカブを引っ張るよりも、掘り起こした方が絶対に効率がいいよな、なんて思った自分はもう大人になってしまったのかもしれない。
後、帰宅。夜になって、気温がまたぐっと下がる。空気が冷たい。

      • -


一ヶ月前に角材で頭を殴られて以来、その殴った相手の外国人と近い人種であろう外国人と接するときに変な緊張をするようになった。少し鼓動が早くなる感じ。別に恨みを持つとか憎しみが湧くという訳ではなくて、ただ鼓動が早くなる。これってトラウマなのかとも思うけれど、いや、多分違う。トラウマなんてたいそれたものじゃなく世間的には「びびり」とか「チキン」とかの表現が妥当で、きっと僕の心に恐怖心があるだけなんだと思う。「びびり」で「チキン」で、つまりこれを総じて「情けない」というのが今の自分。
そして「情けない」と思うと同時に、一定の人種に対して恐怖心や警戒心を抱いてしまうのはある種の人種差別なのかな、とも思う。これはけっこう微妙なところだ。恐怖心は差別なのか。ある一定の人種に恐怖を感じるのは差別なのか。潜在的に持っていた差別意識からその恐怖心は生まれたのか。「差別」という言葉はとても曖昧。
例えば過去に女性関係のトラブルがあり、以来女性に対して不信感や恐怖心を抱くようになったとして、それは女性差別なのかと言えば、多分違う。恐怖心は差別ではない。そう思いたい。
でも、例えば「天使」を「白」で「悪魔」を「黒」で描いてきた西洋人が身体能力の高い黒人に対して恐怖心を抱いたのは当然の意識の流れで、その恐怖心が差別、蔑視、軽視を生んだ事もまた当然の流れとして考えられるんじゃないか。差別は恐怖心と密接に関わっている。
恐怖心は差別ではないけれど、恐怖心は差別を生む。 それはたぶん間違いない。
そしてその恐怖心は自分の弱さだ。 これもたぶん、間違いじゃない。
結局のところ、僕は強くならなきゃいけないんだと思う。それは心身ともに。恐怖を抱かない心の強さを、そして角材を持った相手に立ち向かえる身体の強さを。そうでなけれは差別意識を生んだり、ねじ曲がったナショナリズムを持ったり、頭にタンコブを作ってしまうことになる。

      • -


ぐりとぐら / 中川李枝子・山脇百合子

ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集)

ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集)

今年で生誕50周年なんだそう。
1963年ということはビートルズのデビューとそんなに変わらないのか。凄いな。