ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

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ときおり物憂げに面を上げて顔にかかる髪の毛ごしに
かましくも自分に話しかけえてきた人物はいったい誰なのかと見やり
それから溜め息をついた。


結構よ、飲み物は欲しくありません。
結構です、散歩する気はありません。
とにかくそっとしておいて欲しいわ、望むことはそれだけ。


彼女の作業はまだ終わっていないし、夏はもうすぐなのだ。

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という、昼休みに読んでいた本に出てきたそんな文章そのままの気分で午後いっぱいをやり過ごす。五月にしては蒸し暑くて、みんな汗をかきながら、暑いねー、なんて言ってる。そうですね、暑いですね、まだ五月なのに。ぼんやりとガラス越しに路面のアスファルトを眺めるとこれ見よがしにぎらついてる。暑いせいか立ちくらみが多い。だるいな、と思う。終業。帰宅。家に帰ると姉が今日は夏日だったよと教えてくれた。なるほど、暑いわけだ。明日はもっと暑いんだって。テレビの脇で、貰い物のミニチュア・ローズが元気なさげに首を傾げてる。後、入浴。浴室でなんとなく偶然について考える。

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本を読んでいてその話の中に出てきた日付が偶然にも今日の日付なときがある。それには疑いもなく偶然を感じる。あっ偶然じゃん、と。でもそれは「今日読んだ本」の中に出てきた日付に限った話で、これを「今日読んだ本と今日観た映画のどちらか」に広げると偶然の確率は単純に倍ぐらいになる。さらにこれを「今日読んだ本と観た映画と、今日たまたま時計を見たときの時刻のどれか」まで広げると確率はさらに高くなる。例えば5:10にふとデジタル時計を見たとき、それが今日の日付だったら、それでも偶然だと思ってしまう。さらにさらに範囲を広げてみる。例えば「今日読んだ本と観た映画と、今日たまたま時計を見たときの時刻と今日聴いていた音楽のその演奏時間のどれか」に。こうするとさらに偶然の起こる確率は高くなる。これをどんどん広げていけば偶然はもはや必然になってしまう。
つまり今日の日付と同じ並びの四桁の数字がどこかに存在するのは別に偶然ではなくてむしろ必然。それでも僕は、今日読んだ本の中に今日と同じ日付が出てきたら偶然だと思ってしまうし、聴いていた曲の演奏時間が5分10秒だったら、そこにも偶然を感じてしまう。それは必然なのに。そう考えると偶然が何なのかが分からなくなってくる。ただそれは、逆を言うならば、全ての必然も考え方を変えれば偶然になりうるってことかもしれない。今、僕の斜め前に「必然」のようにTHE WHOのライブCDが置かれている「偶然」。23年前の梅雨時に自分が生まれた「偶然」。考えようによっては全て偶然なのかも。

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風呂上り、コーラを一杯。パソコンを開いてネットをサーフして、日記を書いたりして。全てが偶然であって、そして必然でもある、と。すこし話は変わるけど、偶然とか必然を全部ひっくるめて「奇跡」と呼んでみると、人生をちょっとだけ素敵に過ごせるかもしれない、なんて思いながら、ああ、眠くなってきた。もう寝よう。就寝。
僕が今、この日本で眠る奇跡。