1月20日

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この時期のハトがね、丸々と太っていて物凄く可愛いのです。

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昼前起床。ごろごろ。猫になりたい。
休日を有効に使おうと、とりあえず街に出てふらふらとあてもなく歩きさまよう。でも結局何がしたかったのかも分からないまま夕方が来て、そのまま帰宅。
帰り道、野良猫にコンビニで売っているフライドチキンを食べさせると大喜びしてしまい、チキンがすっかり無くなってもフニャフニャ鳴いて僕の足に擦り寄っくるので、もうないよ、お終い、と言って歩き出してもまだ後をついてくる。で、そのまま猫と散歩。数百メートル猫を連れて歩く。でも家の近くにある居酒屋まで来ると猫は立ち止まって、そこからはもう後をついてこなくなった。フニャーフニャーと大人猫なのにまるで子猫のような鳴き声だけが後ろから聞こえてくる。きっとあの辺りまでが彼女(彼?)の縄張りで、いくらチキンをもらえるかもしれないといってもそれ以上は踏み入ることが出来ないんだろうな。猫の世界もなかなか厳しいな、と思った。

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「高いところに上ると飛び降りたくなるよね」と言うと姉は「私は電車が近づいて来るとホームから飛び込みたくなるよ」と言った。わかるかもしれない、その気持ち。
たしかに電車が来ると、今飛び込んだらどうなるんだろうか、なんて事を考えて足がむず痒くなる。これはタナトスだとかそういう言葉で片付けられるものじゃないもっと単純な、ただ単にそれが「変化できる行為」だからってことなんだと思う。
人は一歩踏み出せば、文字通り一歩踏み出せばそれだけで人生ががらりと変わる状況に立ったのなら一歩踏み出したいと思うのが当然な気持ちで、踏み出した先がどうなっているのか知りたいと願うのが人間の人間たる所以なんじゃないのか、なんて思う。もちろんそれが死に直結する行為であるのならどこかで理性が踏み止まらせてくれるんだろうけど、そうじゃなければ飛んでしまいかねない人はたぶん多い。だって変われるのだもの。絶対的に。僕だって変化できるのなら変化したい。
これは目の前に「どこでもドア」を置かれたようなもので、開けるなと言われても心の底では開けたくて仕方ないのと同じなのかもしれない。この状況は電車のホームのときもあるし、もっと別な、例えば好きな人に愛の告白をするタイミングを探しているときだとか、進路を決めるときだとか、人生には色々あると思う。やったらたぶんマズイけれどやりたい、って状況。僕にもきっと色々あった。その度に理性が踏みとどまらせてくれた。ただプラットホームでは有難い理性なんだけれど、場合によってはそれが邪魔だった。僕の場合は理性が邪魔になることが多くて、いっそのこと理性なんて消えてしまえばいいとも思うけれどそんなことになったら特急電車に飛び込んでしまいそうでそれは困る。かなり困る。冒険心の邪魔にならない程度の理性がほしい。
何が書きたかったのか分からなくなってきたけれど要約すると、人は変化を求めるけれどそのとき理性は時として邪魔ですね、ってこと。


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「もがけば沈むと分かるくらいの大人にはなった」