ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

しっくりこない

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「飼っているハムスターが病気になっちゃって手術したら二万円かかったのよねー、おほほほー」なんてことをお客さんが喋っていて、なんだかなぁ、と変な気分。
いや、二万円が高いとかそういう話じゃなくて、おそらく数千円かもしかしたらもっと安価で手に入れたであろう生き物の為に二万円というのがしっくりこないというか、なんだろう。例えば愛用のギターがあってそれが壊れたから修理に出そうとしたんだけど、修理にかかる値段を考えると新しいギターを買ったほうがいいのかな、でもこのギターの音大好きだから手放せないぜ、俺はこのギターを手放さないぜ。みたいな話ならとても納得いくんだけど、ギターと命を同じものとして考えるのは如何なものだと思うし、やっぱり命ってプライスレスだから幾らかけてでも治療したいって気持ちもわかる。けど、その命をおまえは一旦お金出して買ったんじゃねーかと。プライスレスの命を売買したんじゃねーかと。
もちろん自分が飼い主の立場だったら二万円出してでも助けたいと思うはずだから、その辺は矛盾しているんだけど。でも、なんだろう。そもそも「愛玩動物」ってのが気にくわないのかもしれない。「愛玩」ってねぇ。あからさまに人間勝手な言葉で、つまりは愛する玩具ってことだとおもうんだけど、それってしっくりこない。精巧な縫いぐるみの代わりに本当の命を扱うみたいで、命を軽んじているような、そのくせ死にかけたら幾らでも払います、みたいな。その自分勝手な感じがしっくりこないのかもしれない。

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小学校の五年生だったか六年生だったか、その辺は定かじゃないけど、僕は飼育委員だった。委員決めのときに残った委員が飼育委員しかなくて(飼育委員は夏休みも学校に来ないといけないからみんな嫌がっていた)、僕は動物に対して結構アレルギーがあるから飼育委員は辞めたい、という旨を先生に伝えたにもかかわらず、軍手をはめればいいでしょ、と一蹴されて結局飼育委員になった。ならされた。っていうこれは今考えても腹立たしい思い出。
飼育委員は基本的に餌やりと糞の始末をやっていっればいいのだけど、如何せん相手が動物なんでやっぱり死ぬ。死んだら後始末をしなくてはならなくて、それはもちろん飼育委員の仕事だから委員長を任されていた(思い出した、委員長だったから僕は六年生だ)僕が率先してやらなきゃならない。死ぬのは大抵、大量に飼育されているモルモットで、モルモットが死んだ場合は校舎裏の「お墓」に埋めることになっていた。でも「お墓」とは言ってもそれは、この辺りに埋めといてください、と支持された場所があるだけで墓石とかなんにもないただのさら地で、僕も歴代の飼育委員がしてきたように「お墓」の土をスコップで掘るんだけど、途中ガツッ、ガツッ、と何かにつっかえてしまう。さらに強くスコップを突きたてても、ガツッ。何だろうと思って土を丁寧に払っていくと、そこに現れたのはミイラ化したモルモット。うわっ、ってなる。当然そうなる。この「お墓」なんてのは本当に口だけで、そこは死んだモルモットを埋めておくだけの生ゴミの捨て場みたいなところで、少し土を掘り返せば過去に死んだモルモットの遺骨がうじゃうじゃと出てくるような場所。軽いなぁ。生き物の命なんて軽いなぁ。って。当然そうなる。
たぶん学校側としては生き物を飼うことで命の尊さを学ばせようと企んでいたんだろうけど、僕が学んだのは、愛玩なんてこんなものだよね、ということだった。命を愛するのも玩具にするのも殺すのも捨てるのも売買するのも、人は同じレベルで、しかも結構簡単にしてしまうんだなぁ、って。はっきりとではなく、深層にこっそりと埋め込まれた。
今思えばだけど、飼育委員はなかなか有意義な経験だった。

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別に何かを否定してるつもりなんて一切なくて、ただしっくりこないって話。