ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

体に当たる雨しか冷たくない

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僕のバイトしている居酒屋には生簀がある。まあ、生簀といってもそこから魚を取り出して料理することは殆どなくて、泳いでる魚の大半は料理長が釣ってきた料理に使わないハゼだったり正体不明の稚魚だったりするから、言うならばそれは料理長の個人的な水槽。
その水槽を、僕は好きでよく眺めているのだけど、たまに死んだ魚を見つけることがある。仰向けになってゆらゆらしいて、時間がたつと体の回りがふやけたようになってくる。ひどいときは他の魚に食べられてしまうこともある。惨いなぁ、と思う。ただ、惨いなぁ、と思ったところで感傷的になるわけじゃない。だって、それはハゼが一匹死んだという、ただそれだけのことだから。それは水槽の中で起こった何気ないワンシーンであって、僕の中では全然リアルな出来事じゃない。映画のワンシーンと同じレベルのこと。
変な話だけど、イラクで起こった自爆テロのニュースを聞いて、僕は同じ感情を抱く。よくよく考えたら、自爆テロで何十人も死亡するっていうのは物凄いことなんだけど、その手のニュースはハゼが死ぬ頻度以上にイラクから届くし、何より、それは遠い異国で起こったことなんだ、と軽い気持ちで受け止めてしまっているから、今更そのニュースを聞いたところで何も感じない。そうかぁ、惨いなぁ。ってそれで終わる。何十人も人が死んでるのに。惨いなぁ、程度。下手したら、ふーん、で終わる。
はっきり言って、イラクで何が起ころうとも、僕はそれをリアルに感じれない。それはすごく怖いことだし、たぶん良くないこと。でも僕にとっては、ハゼが死んでも僕に直接関わりがないのと同様に、イラクで何が起こっても、それはあくまで他人事。だって全ての死に涙を流しているような余裕なんて僕にはない。これはしょうがないことだと思う。
メディアの発達で色んなニュースが世界中から驚くほど速いスピード届くようになったけど、だからといってリアリティーが増したわけじゃない。むしろ減ったぐらいだと思う。しょうがないことかもしれない。でもイラクで起こった死と、バイト先の水槽で起こった死が、僕の中で同じレベルで捉えられているんだと考えたら、それはゾッとする。怖い。僕は死を理解しただけで、感じてない。
僕は水槽を眺めるのと同じようにディスプレイを眺めてる。 どっちも自分とは違う世界。 そこにリアリティーなんてない。