ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

ブラックホールへの憧れ

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今月「ブラックホールの撮影に初めて成功!」というニュースが世界を駆け巡った。興味津々に関連記事をいくつか読んでみたけれど、恥ずかしいかな、どれを読んでもよく理解できない。

根っからの文系で、元素記号すらまともに覚えられなかった自分には、ブラックホールを理解出来ないのも当然かも知れないけれど、そもそも質量を持たない光子が重力に影響されるとか、その重力で空間が歪むとか、そういった基本的なところすら理解出来ていない。物理学を基礎から勉強する気もないから(脳みそが追いつかない。それはたぶん“物理的”に)、きっと自分はいつまで経ってもブラックホールを理解出来ないんだと思う。

 

でもブラックホールって魅力的だ。何故だかすごく魅力を感じてしまう。

それはきっと、僕がブラックホールのその原理や成り立ちといった物理学的なポイントではなくて、全てを吸い込んでしまう「本当の闇」というものに文学的な魅力を感じているからなのかも知れない。

 

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数年前にイギリスで世界一黒い物質「べンタブラック」が発明された。光を99.9%以上吸収するべンタブラックは本当に真っ黒だ。いや、「黒い」という表現よりも、そこに「穴が空いている」と言った方がしっくりくる。


VANTABLACK - The Darkest Material on Earth

通常、物体に当たった光は反射する。もちろん全て反射するわけではなく、反射する色しない色は物質によって違っていて、そこで反射した色を僕たちはその物質の色として認識する。赤ペンが赤いのはそれ自体が発色しているわけではなくて、赤ペンに当たった光のうち赤色が多く反射しているから赤く見えるだけだ。黒い物、例えば起動していないスマホの画面は真っ黒だけれど、光の反射率もそこそこあるから画面を見ればそこに自分の顔が映る。そのことで画面が平らでツルツルなんだと認識する。光が反射することで僕たちは色や立体感を感じることができる。

それに比べてベンタブラックはほとんどの光を吸収してしまう。だからそこには色も立体感もなくて、視覚的には「無」だ。もちろんそれはとても特異なことだけれど、待てよ、と思う。

光が反射しないことを「無」に等しいと感じるのであれば、そもそも自ら光を発していない自分を含めた殆どの物質も「無」なんじゃないか。

 

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夜、寝る前に電気を消す。

その瞬間に部屋にある殆ど全ての物は色を失う。スマートフォンと消し忘れたオーディオインターフェイスの電源ランプ以外はモノクロになる。ダサいアイボリー色の天井も、ハンガーにかかったインディゴブルーのジャケットもみんな平等に色を失う。この時、僕は「インディゴブルーが黒く見えている」と認識するけれど、実はそれは正解じゃなくて、正しくは光を消したその瞬間にジャケットは「何色でもないもの」になる。本来の姿になる。

自ら光を発していない物質は、そもそも何色でもない。

赤いライトを当てたらジャケットは深いエンジ色に見えるかも知れないけれど、それはインディゴブルーがエンジ色に見えている訳ではなくて、その瞬間そのジャケットはエンジ色をしている。もっと正確に言うと、エンジ色の光子が跳ね返ってそれを僕が知覚しただけの話。

そして光を当てなければそれは「無色」だ。

そもそも僕たちはみんな無色だ。触れなければ立体感もない。光が当たらなければ何色にもなれない。外的な力が加わらなければ自らを定義することができない。モノとは得てしてそんな存在だ。

そう、この話はメタファーでもある。

 

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ブラックホールの魅力はそこにある気がする。

光が当たらなければ自分を定義できない僕(たち)にとって、その光さえも飲み込んでしまう「無」であり、そして一方では圧倒的な存在感を放つブラックホールは、一種の憧れなのかもしれない。達観した存在。解脱者として。

エジソンが電球を発明する以前の世界で太陽が信仰の対象となり得たように、光の溢れたこの世界でブラックホールは神に近い存在なのかもしれない。

 

 

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そういえば先日、生まれて初めて物理雑誌の『Newton』を買った。

特集は「無とは何か」で、それはもちろん哲学的な意味での「無」はなくて、物理的な意味での「無」について。例えば「真空」や「宇宙の外」についての話で、上に書いたような内容とも一切関係がない話だったけれど、それでもとても面白かった。物理素人からすると全体的に目から鱗の内容。「個体の氷や鉄のような物質であろうと、実際には“無”と大差がないといえます。」という一文と、その理由に感嘆する。

 

 

カレーを食べながら考える「差別」とか「日本の未来」とか

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よく行くネパールカレー屋さんで昼食を取っていると、前の席の黒人男性が片言の日本語で料理の注文をしていた。注文を受ける店員さんも外国人(多分ネパール人)。これといって特別な光景では無いけれど、これからこんな光景はもっと増えてくんだろうなと、ぼんやり思う。

 

ここ数年、この街には外国籍の人が随分と増えた。カレー屋さんも増えた。

家の近所にはインターナショナルスクールも出来るらしい。その場所は、かつて僕が通っていた小学校のあった場所なのだけど、数年前に少子化の影響で他校と合併してしまい、ここしばらくは校舎だけが寂しく残されていた。それがこの度、晴れてインターナショナルスクールとして再稼働することになるという。

今年の4月から外国人労働者の受け入れ制度が拡大したことも考えると、今後この街にはもっと沢山の外国人がやって来るはずだ。

 

この街が国際的な、素敵な街になってくれると良いなと思う。

 

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先日、あるバラエティ番組で、コンビニで働く外国人労働者の日本語の間違いをネタにして出演者全員がゲラゲラ笑うという、最低な場面が放送されていた。当然、放送直後からネット上で問題視されたわけだけど、本当に(自分を含め)日本人というのは差別に対するリテラシーが低いんだなと痛感させられる。

 

日本は決して単一民族国家では無いけれど、日本列島に住む日本人の大半は大和民族だ。僕もそう。日本人の父母から生まれたし、たぶん死んだときにはお坊さんが来てお経を読んでくれる。願い事をするときは「神様、仏様」と言うし、端午の節句には柏餅を食べて、お正月には鏡餅を飾って、さらに数日後にはそれを食べる。そんな餅が好きな民族である僕たちは、日本にいる限り圧倒的にマジョリティだ。

そして多数派だったからこそ、差別がダメなことくらい頭では理解はしていても、現実的な問題にはとても鈍感なのかもしれない。圧倒的な多数派の中で生きてこれたお陰で、日本では差別することも、されることも無かったから。

 

誰だって差別がダメなことくらい知っている。テレビ番組で外国人労働者の日本語の間違いを嘲笑っていた芸能人だって、トランプ大統領の差別的な発言には眉をしかめるかもしれない。何故なら、アメリカにおいては日本人がマイノリティになってしまうから。ともすれば差別される側の人間になってしまうから。

結局、差別は自分がマイノリティにならない限りは、本当の意味での理解が出来ないのかもしれない。

 

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ドナルド・トランプが大統領に就任して2年が経った今でも、トランプの支持率は一向に下がらない。あんなに差別的な発言を連発しているのにも関わらずだ。遠く離れた日本から見ていると、そのことが不思議で仕方ない。

 

アメリカ(だけでは無いけど)の世論が右翼化していたり、白人至上主義が盛り上がってたりする背景には、白人が危機感を感じているからという話を聞いたことがある。

白人至上主義というと、有色人種より我々は優れている!なんてことを唱えている人たちのイメージがあるけれど、最近の白人至上主義者たちは自分たちがマイノリティになることを恐れていて、その恐怖心が有色人種を嫌う動機づけになっているらしい。もともとアメリカはイギリスから白人が入植して建国した“白人の国”だったのに、このまま移民が増え続ければ白人は少数派になってしまう!という危機感を持っているという。事実、アメリカの国勢調査局の予想では、2044年までに非ヒスパニック系白人が人口に占める割合は50%を割ることになる。日本人からすると、そもそもインディアンの土地を奪った’外国人’が作った国なのに何を今更言っているんだ、となるけれど‥。

 

ただそれは、自分が日本で圧倒的なマジョリティとして生きているからそんな風に思うのかな、とも考えてしまう。

例えばこの先、少ない労働力を補うために日本政府が移民政策を推し進めて、外国人がたくさん流入したとしたら。その2世3世が日本人としてこの国で暮らしたとしたら。社会が多様化して、日本固有の文化が次第に薄れていったら。日本人における大和民族の割合が50%を割る日がきたとしたら。その時になって、初めて日本人は今アメリカで起きていることを理解するのかもしれない。

 

そんな未来が訪れた時、今の日本人が持つ差別に対してのリテラシーの低さは本当に怖い。

既に、現在でもネット上にはヘイトが溢れてる。間違った愛国主義が吹き荒れている。そのことに嫌悪感を抱く自分の気持ちを大事に持っていないと、来るべき多様性を持った未来の社会で間違った判断をしてしまうかもしれない。常に自分の立場とは違う立場の視点も持ち、そしてそれを尊重する。そんな、もの凄く簡単なことにも気づけなくなる未来がくるかも知れない。恐ろしい。

 

と、そんなことをカレーを食べながら考える。

それにしても、カレーは平和だ。いろんな野菜や肉が鍋の中で一緒くたに煮込まれる。アメリカが「人種の坩堝」だとするなら、カレーは「食物の坩堝」だ。沢山の香辛料と時間を使って、様々な食材が調和のとれた味になるまで煮込まれる。

世界が美味しいカレーのようになれば良いと思う。

 

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日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜

「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜 (朝日文庫)

「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜 (朝日文庫)

 

今まで元号漢籍(中国の書籍)からの典拠だったわけだけど、安倍総理は早い段階から国書を典拠とする新元号を希望していたらしい。なんだかドキッとする。これも一種の「日本スゴイ」なのかもしれない。

 

この本は「日本スゴイ」という愛国心がどう戦争と結びついたのかを、膨大な資料をもとに考察していく本。というか、アホみたいな「日本スゴイ」言説に突っ込みを入れていく本。今こそ読むべき本だと思う。それにしてもこんな膨大な資料、どこで集めたんだろう。早川タダノリさんがスゴイ。

猫と言葉 手に入れたものと失ったもの

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最近の野良猫は警戒心が強い。

一定の距離を保ってこちらを観察して、気安く撫でさせるなんてことは絶対にない。こちらから近づこうものなら物凄い速さで逃げていく。昔はもっと人懐っこかった気がするけれど、どうしてこうなってしまったんだろう。寂しいなぁ。きっと心無い人が増えて、いじめられる機会が増えてしまったから人を怖がるようになったんだろうな。世知辛い世の中だな。

 

なんて思っていたのだけれど、待てよ、と気がつく。

 

もしかしたら、猫が懐かないのは自分に問題があるのかもしれない。

昔のピュアな自分と違って、もうおじさんになってしまった自分の心はどす黒く汚れていて、そんな心を猫は読み取っているんじゃないだろうか。それで警戒されているんじゃないか。

野良猫と対峙するとき、彼らはじっとこちらの瞳を見つめてくる。なんだか心が見透かされそうな気分になる。猫たちは瞳を覗き込む事で相手が純粋無垢か、それとも悪意や邪念を持った人間なのかを見極め、体を撫でさせるかを判断しているんじゃないだろうか。もちろん自分は野良猫に対して悪意を持って近づいたりはしていないけれど、それでも子供の頃の純粋無垢な心とは違う。猫はそれを読み取ることが出来て、それで安易に近づく事がなくなったんじゃないだろうか。

 

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猫に人の心を読み取る能力があるんじゃないかとは昔から漠然と思っていた。

第六感のような、胡散臭く言えば超能力のような力。これは猫に限った話ではなく、動物全般が持っている気がする。人智を超えた、何かしらの能力。

 

そう考える理由は簡単で、それは動物は言語を持っていないからだ。

 

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ドラえもんが四次元ポケットから取り出す道具の一つに「翻訳こんにゃく」というのがある。使用方法は極めて単純で、そのコンニャクを人や動物、もしくは宇宙人に食べさせるとあら不思議、その食べた相手の言語が理解できるようになるという未来の便利道具だ。

ただ、あのコンニャクには根本的な問題がある。アニメに登場する未来の道具にいちゃもんをつけることのナンセンスさは百も承知で言わせてもらうと、「翻訳こんにゃく」は外国人や宇宙人には使えても動物には使えない。なぜなら動物は言語を持っていないから。翻訳しようにも動物には言語体系がない。人間が聞き取る「にゃー」は猫にとっても「にゃー」であって、そこから感情は読み取れるかもしれないけれど、そこに言語が持つような法則はない。言語がなければ翻訳もできない。

(とはいえ、正確には動物も口頭言語を持っているらしい。でもそれは人間のように柔軟な言語体系ではない。)

 

 

動物が喋ることができない一方で、人間はいつの頃からか「言語」を手に入れた。

 

でもそれは、ただ手に入れただけなんだろうかと考えてしまう時がある。「言語」の代わりに失ったものはないんだろうか。振り返ってみれば、人間は進化の過程で色々なものを犠牲にしている。

例えば人間は二足歩行になったことで両手が自由になったけれど、代わりに腰回りが細くなり産道が狭まったから、赤ちゃんを未熟な大きさのまま産まなければならなくなった。脳が発達して賢くなったけれど、その代わりにエネルギー消費量が上がってしまい筋力を減らさなきゃいけなくなった。そうやって人類は、進化の過程で何かを手に入れる代わりに何かを犠牲にしてきた。

 

では言語は? 言語を手に入れた事で人間は何を失ったんだろう。

 

動物は鳴き声はもちろん、匂いや踊り、実際に触れ合う事でコニュニケーションをとる。イルカやコウモリは超音波を使う。超音波なんて今の科学であれば理解できるけれど、数百年前にはそれはテレパシーも同然だったかもしれない。

そんな未知のコミュニケーション手段が、見つけられていないだけで今も存在しているかもしれない。そして、そんな未知のコミュニケーション手段を、人間は言語を手に入れると同時に捨ててしまったのかもしれない。

動物が地震の前に騒ぎ出すのは何故?魚の群れが方向転換をするとき、先頭と最後尾が同時に同じ方向に向きを変えられるのは何故?オスの三毛猫は天気を読むことが出来るって本当?

動物の世界はわからない事だらけだ。猫がこちらを睨みつけている時、彼らなりのコミュニケーション手段でこちらの心を読み取っているのかもしれない。僕の心の中にはいろいろな邪念や言葉が渦巻いていて、そこに警戒心を抱いているんじゃないか。どうなんだろう。言葉でコミュニケーションをとってきた僕たちには、それはわからない。

 

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野良猫を見つけると、とりあえず鳥の鳴き真似をして注意を引いてみる。チュンチュンチュン。すると野良猫はこちらに気が付いて、じっと瞳を見つめてくる。にゃーん、こっちおいでー、と言ってみても動かない。数秒間見つめ合うと急にそっぽを向いてどこかへ行ってしまう。あーぁ。猫も人の言葉が理解できればいいのにな、そうすればもっと通じ合えるのにな、なんて思うけれど本当は違うのかもしれない。

本当は言葉なんてあるから猫と通じ合えないんじゃないか。

そう考えると、すごく残念だ。

僕たちが言葉と引き換えに捨ててしまったものは、多分、もう手に入れられない。

風化について

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「風化」という言葉はとても詩的だなと思う。

「風」に「化ける」と書いて風化。もちろん実際は風に化けているわけではない。雨風にさらされ、もしくは微生物に分解されてその姿を失う。土に還る。それを「風に化ける」と表現する。素敵な表現だと思う。詩的。

 

思い返せば、姿を失うことのメタファーとして風を用いる歌詞は多い。例えば、秋川雅史さんの『千の風になって』では死ぬことを「風になって」と表現している。他にも、前回のブログで触れたはっぴいえんどの『風をあつめて』もそう。東京オリンピックによって開発が進み、失われてしまった懐かしい東京の風景を「風」と表現している(と自分は解釈している)。

辞書にこそ載ってはいないけれど、日本語の「風」には「消失」という意味を内包しているんだろうと思う。

ちなみに「風化」は英語だと「weathering」だそうで、weatherは「天気」だから英語でも表現のニュアンスは似ているのかもしれない。

 

 

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人類は風化してしまうのか。なんて途方もない事を最近考えている。

人類が絶滅した後、人類の痕跡はいつまで残るのか。どのくらいで風化してしまうのか。人類の後に登場する知的生命体は、その痕跡を見つけることができるのか。

そんな、考えたところで何の意味の無い未来の話に思いを馳せている。

 

地球誕生からの46億年を一日に換算すると、人類の誕生は23時59分58秒頃だという。でも、それはあくまでホモ・サピエンスが誕生した数十万年前が23時59分58秒なのであって、文明を獲得した期間なんてものはほとんど「無」に等しい時間でしかない。その「無」に等しい人類の痕跡は、あと何秒、いや、0.何秒の間、地球上に存在することができるんだろうか。数秒後には風化して完全に無くなってしまうんだろうか。

 

人類の作ったほとんどの物は、時間が経てば風化してしまう。都市や道路は数百万年(地球にとっての数分だ)かかれば完全に風化してしまうらしい。

ではプラスチックはどうだろう。プラスチックは自然環境では半永久的に分解されないと言うけれど、その「半永久」は何年なんだろう。100年?1000年?一説によるとビニールで50~100年くらい、硬いプラスチックのカードだと1000年くらい分解にかかるそうだけれど、でもそれは完全に分解されて土に還るんだろうか?プラスチックの粉となって土に混ざるのか?その成分は未来の知的生命体によって発見されるんだろうか?わからない。

 

でも、と思い出す。

少なくとも僕たちは数億年前の恐竜の化石を発見できている。もっと前の生物や植物の化石も発見できている。風化せずに石化したものは発見できている。

 

 

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当然のことだけれど、ほとんどの人間は死んでも化石にはならない。

化石になるには様々な条件を満たさなければならなくて、一つの骨が化石化する確率は10億分の1だとも言われている。ノンフィクション作家のビル・ブライソン氏によると「全ての化石は奇跡」なんだそうだ。それくらい化石になるのは難しい。

では現代人はどうだろう。ただでさえ化石になるのが難しいのに、文明が起こって以来、多くの場合はその文化に従った形で埋葬されてきた現代人が化石になるなんてことがあるんだろうか。そして、もし仮に化石になったとして、地球時間で言うところの数十分間繁栄した恐竜ならともかく、2秒間繁栄しただけの人類が何億年後かに見つかるんだろうか。そして、そこに文明の存在を残す事ができるんだろうか。

これまで地球上に存在した全生物のうち、化石になっている生物種の割合は0.1パーセント以下であるとも言われている。人類はその0.1パーセントになる事が出来るのか。

わからない。確実に言えることは一つだけ。

人間を含め、ほとんど全ての死は「石」ではなく「風」になる。

 

 

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結局、人類の痕跡は地球のタイムスケールで見たとき、無いも同然なのかもしれない。

人間の全ては、残像にも残らない一瞬の明滅なのかも。

 

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しかし、物理学者のアダム・フランク氏は、人類の痕跡は未来に残る可能性があると言う。

その最も有力な痕跡は、なんと空気中の「炭素」。人類が化石燃料を使用することによって、空気中にある天然の炭素同位体と人工の炭素同位体の比率が変化するので、それを検出できれば人類の痕跡を見つけられる可能性があるんだそうだ。なるほど!(いや、正直ちんぷんかんぷん)

 

空気中の炭素か。

そう考えると「風化」という言葉が俄然リアルなものに感じる。

何億年も先の未来、その時代の科学者が風の中に含まれる炭素を測定したとき、そこに人類の痕跡があるかもしれないわけだ。風化した人類の痕跡が。

 

つまり、今は「風化」という言葉に詩的なニュアンスを感じているけれど、何億年も先には「風化」は写実的な表現になっているかもしれない。

ん、いや、そもそも何億年後に「風化」なんて言葉はないか。

冬にわかれて の話 B♭の上に鳴るソ

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あくびをしている間にも、春は近づいてきている

 

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音楽を聴いていると、自分の好きな〝和声に対しての主旋律の当て方〟があることに気がつく。

ポップミュージックを聴くとき、多くの場合は主旋律に耳を傾ける。でも、その背景にはコードが流れていて、僕たちは無意識のうちにそのコード(和声)との関係性の上でメロディ(旋律)のイメージを受け取っている。例えばCコードの上のメロディはAm7の上でも鳴らすことができるけれど、そこから受けるイメージはCコードのそれとは全然違う。

よく、音楽を聴いて「素敵なメロディだ」なんて感想を言う人がいる。僕も言う。でもメロディだけを切り取って評価することは実は難しくて、どんなコードの上にあるかによってメロディは本当の意味を持つ。(と思っている。専門的に音楽を学んだことがないので、実際に音楽の世界でどう考えられているかはわからない。)

 

だからコードとメロディの関係性にも好き嫌いは生まれる。例えばマイナーコードの上にメロのトップが9度(楽器を弾かない人には分かりにくい表現かもしれない。ごめんなさい。音階はルートを1度として数字で表現する事が出来るのです。)で入ってくると僕はゾクッとしてしまう。胸を掻きむしられる感じがして好きだ。マイナーコードの持つ悲しさの中に切なさが足されるイメージ。Al Kooper「Jolie」のイントロなんかがそう。


Al Kooper-Jolie

 

あと最近好きなのは、3和音のメジャーコード(1.3.5)に対してのトップが6度で入るメロディ。和声の中に含まれてない音がトップで入ることはそんなに多くはないけれど、それでも僕の好きな名曲には使われていることが多い。はっぴいえんどの「風をあつめて」もそうで、サビのコードがE (ミソ#シ)に対してボーカルの頭がド#。ベン・E・キングの「Stand by Me」もそうだ。


【高音質】はっぴいえんど 風をあつめて

 

和声を4和音(1.3.5.6)で捉えてジャズっぽいニュアンスになっているのか、音楽的に詳しい仕組みはわからないけれど、メロが6度で入った時の世界観がとても好きだ。3和音から外れているのに短7度のような不安感も無いし、かと言って増7度や9度のように過度なエモーションを与えるわけでも無い。コードを俯瞰で眺めているような独特の立ち位置で、まるで懐かしい思い出話でもしているような、そんな距離感が6度の音にはある。そう、思い出話。自分の中ではこれがしっくりくる表現だ。

きっとそう思うのは、先にあげた曲たちのせいかもしれない。はっぴいえんどの「風をあつめて」(そして収録されているアルバム「風街ろまん」)は東京オリンピックを境に近代化する以前の東京を歌っているし、「Stand by Me」を聴いて思い浮かべるあの映画は言わずもがな、少年時代を懐古する映画だから。思い出の6度。懐かしい音。

 

 

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寺尾紗穂さんのバンド〝冬にわかれて〟を初めて聴いたのは深夜ラジオだった。偶然流れてきた「なんにもいらない」の冒頭「なんにもいらないよ 君の幻以外は」と言う歌詞を耳にした途端、脊髄反射的に、好きだな、と思った。好きになるときはだいたいそんなものだ。理屈じゃない。理屈はだいたい後からついてくる。

いい曲だなと思って手元のギターでコードをとると最初のコードがB♭。それに対してコード頭のボーカルはソ。6度だ。なるほどな、と夜中に一人ほくそ笑む。

すぐにApple Musicでアルバムを聴くと曲も歌詞も演奏も素敵だったので、すぐに寺尾紗穂さんのエッセイ『彗星の孤独』を注文する。

素敵な言葉に溢れた本だった。

 

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最初に聴いた曲の影響も大きいだろうけれど、音楽も文章も寺尾さんの作品は総じて6度のような世界観が流れているように感じる。3和音に含まれることなく、適度な距離感を保ち、俯瞰で冷静に、感情を過度に出す事もない。でもそれが逆説的に胸に響く。太陽の周りを回る彗星のような、そんな6度の世界観。

まぁ、つまり、僕は好きだな、という事。

 

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調べてみると僕の住む街でもライブをするとの事だったので、チケットをとって観に行くことにした。

MCで寺尾さんが〝冬にわかれて〟と言うバンド名は尾崎翠の「冬にわかれて 私の春を生きなければならない」という詩のタイトルからとったのだと話されていた。

偶然にも、そのライブの日は立春だった。

〝冬にわかれて〟を観るのには最高の日だった。

 


冬にわかれて - なんにもいらない

なんにもいらない

なんにもいらない

 

 

彗星の孤独

彗星の孤独

 

 

全ての音楽はラブレター理論

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夜、知り合いから買った豆でコーヒーを淹れてみる。

ミルでガリガリと挽いたその瞬間から、コーヒーの香りが部屋に立ち込める。普段インスタントコーヒーを飲んでいる身からすると、コーヒーを淹れる作業は一種の「儀式」に近い。インスタントな作業ではなく、しっかり手間をかけて珈琲タイムを迎える儀式。カフェインの持つ効能を踏まえれば、それは「宗教的」と言っても差し支えないと思う。

お供は自家製のスコーン。お気に入りの椅子に座って、音楽は、そうだな、カーティスメイフィールドなんかのニューソウルをうるさくない程度に流してみる。

それで完璧だ。何もかも完璧。

 

 

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先日、知人がやっている喫茶店で珈琲豆を買った。その場で焙煎してくれるというのでお願いをすると、その待ち時間の間に、僕が買った豆がどんな豆で、焙煎の仕方によってどんな味の違いが出るかの説明もしてくれた。ただ、正直なところ、そんな説明をしてくれても珈琲豆にはあまり興味がないし、多分覚えられないな、なんて思っていると最後に知り合いが「まぁコーヒーって何を飲むかじゃなくて、どこで飲むかが重要なんだけれどね」と言ってくれたので安心した。よかった。僕もそう思っていた。

珈琲道とでも言うのか、コーヒーにはやれ豆の種類はどうだとか、やれ淹れ方はこうだとか、そんな能書きが付いて回ることが多い。でも僕みたいな特別コーヒー好きでもない人からすると、そんなアテンドは大して意味をなさなくて、それよりもどんな環境で飲むかの方が重要だったりする。インスタントコーヒーでも自分のソファで好きな音楽を聴きながら飲むコーヒーは美味しいし、逆にいくら美味しいコーヒーでもクラクションの鳴り響く空気の悪い雑踏で飲んでいては美味しく思えない。「高級な豆」よりも「座り心地の良いソファ」の方がコーヒーにとっては重要だと思っている。

きっと何事もそうで、「道」が極まって芸術に近づけば近づくほど、重要なことを見失ってしまうもの。

ちょうど最近、音楽についても似たようなことを考えていたんだった。

 

 

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「すべての音楽(歌)はラブレター理論」という持論がある。

これは音楽の様式ではなくて、評価の仕方についての話。音楽の評価基準は沢山あるけれど、それはラブレターと同じなんじゃないか、という持論。

そもそも歌の起源を遡れば、神様への讃歌だったり好きな人への求愛の歌なわけだから、音楽はつまるところラブレターなんだと言っても、あながち間違いではないかもしれない。そう捉えた場合、音楽を評価するときに重要なことって何なんだろうかと考えると、それはラブレターと比較してみると明確になるのかな、なんて思っている。

音楽の評価は殆どのユーザーからの場合、良い曲だとか、良いメロディだとか、歌がうまい、演奏がうまい、なんて評価基準を設けられるけれど、「道」が極まったが故に、クリエイター達はリスナーの想像をはるかに超えるような評価基準に拘りを見せることがある。

例えば、最終マスタリングに何日も費やすなんてことはザラだし、音が変わるといった理由で電圧や湿度の違う外国で録音したり、少しでも機材の音を良くするためにマイ電柱を立てたりなんてこともある。僕個人としてはそういう拘りが好きだし重要だとも思うけれど、一方でそれは一部の音楽好きにとって重要なだけで、多くのリスナーにはあまり影響がないんじゃないかなとも思ってしまう。

そこでラブレター比較。仮にそんなクリエイターの拘りをラブレターで表現するならば、音楽でいう「音質が良い」とか「良い楽器を使っている」とかは、ラブレターで言うところの「紙質が良い」とか「使っている万年筆が高級」だとかいうレベルの話に過ぎないのかもしれない。これってラブレターの受取手からすると、結構どうでもいいことで、もっと言ってしまえば、ラブレターにおいては字の上手い下手も関係がないし、文章の良し悪しだってそこまで影響ないかもしれない。重要なのはそこじゃない。

ラブレターで一番重要なのは、誰が誰にどんな気持ちで書いたかだ。それが重要。どんなに綺麗な字で書かれたラブレターだろうと、好きでもない人がいい加減な気持ちで書いた文章なら何の価値もない。逆に言えば、好きな人が書いてくれたラブレターなら紙質の良し悪しなんて関係がないし、文章の上手い下手も関係がないどころか、一言「好きです」と書いてあればそれだけで十分かもしれない。

音楽だって実はそういうものなんじゃないかと思う。だからこそ音楽には「ポップアイコン」や「ロックスター」や「アイドル」が存在する。彼ら、彼女らが歌う歌が支持を得る。曲が良いとか歌が上手いとかは実際のところ(そこまで)関係がない。結局、誰が歌っているかが重要。

 

実は、これは僕自身が趣味で音楽を作っている時に「戒め」としていることでもある。部屋で一人PCに向かっていると、サチュレーターで倍音増やして‥とか、-3dB以上リダクションを起こさないようにして‥とか、どうでも良いような事(でも本当はどうでもよくない事)ばかり考えてしまうから、そんな時は頭の片隅でもう一人の自分が囁いてくれる。そんな事は重要じゃないんだよ、あなたが自分の音を出していることが重要なんだよ、と。

まぁ、自分はプロじゃないから聴き手の事なんて一切考えずに、自分の中の「音楽道」を極めてしまえば良いのかもしれないけれど、それだと終わりの見えない作業になってしまうから。

先にも書いたように「道」を極めようとすると芸術になってしまう。娯楽には答えがあるけれど、芸術には答えがない。つまり「道」を極める事は、答えのない迷路に入る事なのかもしれない。そうすると作り手と聴き手の剥離も生まれてしまう。そうやって作られたラブレターの需要なんて限られてるし、ラブレターマニア以外からしたら魅力的じゃない。きっと愛だって伝わらないと思う。

 

 

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そんな僕にとって、コーヒーで一番重要なことは「素敵な音楽」だ。

今日のBGMはCurtis Mayfieldの「So In Love」

最高のラブレター


Curtis Mayfield - So In Love

 

去年のふりかえり 映画・音楽・本

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明けましておめでとうございます

 

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年が明ける前に2018年に聴いた音楽や観た映画、読んだ本などの振り返りをしようと思っていたのに、気がついたら2019年になっていた。たしか去年もそうだった。毎年同じことを言っている気がする。

2018年のうちにやろうと思っていたことが何も出来ていない。

そういう大人は大成しない。

 

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今年は少し時間ができたこともあって、例年になく映画を観たように思う。映画館にも足を運んだし、NetflixWOWOWオンデマンドを利用してPCやスマートフォンでも映画を見るようになった。そんな中、去年最後に見た作品は塚本晋也監督の時代劇『斬、』だった。

映画「斬、」オフィシャルサイト。塚本晋也監督作品 池松壮亮 蒼井優 出演 2018年11月24日(土)よりユーロスペースほか全国公開!


映画『斬、』特報

塚本晋也監督の過去作を何一つ見ていない上に、この映画の情報を何も入れずに映画館で見たのだけれど、はっきり言ってしまうと「よくわからない」というのが正直な感想だった。鬼気迫る殺陣シーンや臨場感のある音響、明瞭なストーリーが80分という尺に収まっていて飽きることなく観れたものの、それでも意味深な演出や台詞が多すぎて、なんだか「よくわからない」という印象。

ただ、鑑賞後に一緒に映画を観た知人と喫茶店で感想を話し合ったのだけど、そこで知人から塚本晋也監督の前作が戦争映画だったと聞いて、あーなるほど、と腑に落ちるところがあった。そうかそうか、だからあの演出、台詞なのか、と。あれ、なんだか全てが繋がってくるぞ。

なるほど、これは現代日本の置かれている状況を投影している時代劇なのか。憲法9条の改正や沖縄の基地問題塚本晋也アメリカのメタファーだし、蒼井優の感情の変化は国民感情そのもの。だからこそ、ゴロツキとの立ち回りで蒼井優が犯されているのは意味があるし、池松壮亮はあんなに苦しそうに2回も自慰をしたのか(どんな映画だ)。武力を持つことの意味を考えさせられるし、そこから生まれる負の連鎖に胸を締め付けられる。全てのセリフが確かな意味を持つ。なるほど、そういうことだったのか。

と、合っているかも分からない答え合わせをしているうちに、この映画はとんでもない名作なんじゃないかと思えてきた。「よくわからない」なんてことは全くなくて、こんな深い内容が綺麗に80分に収まっているだなんて、なんたるテクニックだ。

 

と、感動しているその一方で、鑑賞後に喫茶店で小一時間話し込まなければ良さが分からない映画というのはどうなのかとも思う。もちろんそれは自分の勘の鈍さがゆえに喫茶店での小一時間を必要としているだけであって、普通なら観ながらに理解することなのかもしれない。でもメタフォリカルな部分を意識しすぎると、映画のストーリーそのものに入り込めない気もするし、その辺りの匙加減ってすごく微妙だ。んー、映画って難しい。

 

なんて色々考えたけれど、この映画が素晴らしいのは間違いないし、何よりこれだけ考えさせられるんだから、それだけでも観る価値はあったと思う。映画に限らず考えることを求めてくる作品って魅力的だ。

 

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今年、音楽で個人的に刺さったのはNYにあるBig Crown Recordから出た作品群。知らなかったレーベルだけれど、ここから出ている7インチがどれもツボだった。まぁ7インチと言っても実際はApple Musicで聴いているんだけれど。


Bobby Oroza - Should I Take You Home - BC064-45 - Side B


Bobby Oroza - This Love Pt 1 - BC064-45 - Side A


Holy Hive - Blue Light - BC077-45 - Side B


Thee Lakesiders - Parachute


El Michels Affair feat. Lee Fields - Never Be Another You (Reggae Remix) - BC053-45 - Side A

どれもこれもゲキ渋。今年はBig Crown Recordの作品でプレイリストを作って、それをエンドレスで流してる時間が多かった。それ以外だとMr Twin Sisterの新譜もよく聴いたな。

 

邦楽はキリンジくるりサニーデイ・サービスなんかの昔から好きだったミュージシャンの新譜が相も変わらず良かった。でもそれ以外にも素敵な音楽が沢山。

 


冬にわかれて - なんにもいらない

今年一番のお気に入りアルバム。素敵。

 


折坂悠太 - さびしさ (Official Music Video)

いい曲。

 


カネコアヤノ - 祝日

ラメが目に入らないか心配になる。

 

あと新譜じゃないけれど、今年よく聴いたアルバムははNed Dohenyの「Ned Doheny」(1973)


Postcards From Hollywood - Ned Doheny

日本だと76年発表の『Hard Candy』がAORの名作として有名だけれど、その3年前に発表された1stアルバムがSSWモノとしてすごく好みだった。CSN&Y的なコーラスワークがダサかっこいいA面もさることながら、B面「Postcards from Hollywood」からのシンプルで物悲しい曲達は名曲揃い。特に「Postcards from Hollywood」は本当に名曲だと思う。

 

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本は正直あんまり読んでないのだけれど、記憶に残っているのは

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)
 

 柴田元幸さんが翻訳したポールオースターも何冊か読んだし、過去のエッセイ(「ケンブリッジ・サーカス」)も読んだから柴田さんの文章にはたくさん触れていた気がする。柴田さんが編集している雑誌「MONKEY」のバックナンバーも実は全部揃えてる。