ハナムグリのように

日々のあわ 思ったこと、聴いた音楽や読んだ本のことなどを

猫と言葉 手に入れたものと失ったもの

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最近の野良猫は警戒心が強い。

一定の距離を保ってこちらを観察して、気安く撫でさせるなんてことは絶対にない。こちらから近づこうものなら物凄い速さで逃げていく。昔はもっと人懐っこかった気がするけれど、どうしてこうなってしまったんだろう。寂しいなぁ。きっと心無い人が増えて、いじめられる機会が増えてしまったから人を怖がるようになったんだろうな。世知辛い世の中だな。

 

なんて思っていたのだけれど、待てよ、と気がつく。

 

もしかしたら、猫が懐かないのは自分に問題があるのかもしれない。

昔のピュアな自分と違って、もうおじさんになってしまった自分の心はどす黒く汚れていて、そんな心を猫は読み取っているんじゃないだろうか。それで警戒されているんじゃないか。

野良猫と対峙するとき、彼らはじっとこちらの瞳を見つめてくる。なんだか心が見透かされそうな気分になる。猫たちは瞳を覗き込む事で相手が純粋無垢か、それとも悪意や邪念を持った人間なのかを見極め、体を撫でさせるかを判断しているんじゃないだろうか。もちろん自分は野良猫に対して悪意を持って近づいたりはしていないけれど、それでも子供の頃の純粋無垢な心とは違う。猫はそれを読み取ることが出来て、それで安易に近づく事がなくなったんじゃないだろうか。

 

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猫に人の心を読み取る能力があるんじゃないかとは昔から漠然と思っていた。

第六感のような、胡散臭く言えば超能力のような力。これは猫に限った話ではなく、動物全般が持っている気がする。人智を超えた、何かしらの能力。

 

そう考える理由は簡単で、それは動物は言語を持っていないからだ。

 

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ドラえもんが四次元ポケットから取り出す道具の一つに「翻訳こんにゃく」というのがある。使用方法は極めて単純で、そのコンニャクを人や動物、もしくは宇宙人に食べさせるとあら不思議、その食べた相手の言語が理解できるようになるという未来の便利道具だ。

ただ、あのコンニャクには根本的な問題がある。アニメに登場する未来の道具にいちゃもんをつけることのナンセンスさは百も承知で言わせてもらうと、「翻訳こんにゃく」は外国人や宇宙人には使えても動物には使えない。なぜなら動物は言語を持っていないから。翻訳しようにも動物には言語体系がない。人間が聞き取る「にゃー」は猫にとっても「にゃー」であって、そこから感情は読み取れるかもしれないけれど、そこに言語が持つような法則はない。言語がなければ翻訳もできない。

(とはいえ、正確には動物も口頭言語を持っているらしい。でもそれは人間のように柔軟な言語体系ではない。)

 

 

動物が喋ることができない一方で、人間はいつの頃からか「言語」を手に入れた。

 

でもそれは、ただ手に入れただけなんだろうかと考えてしまう時がある。「言語」の代わりに失ったものはないんだろうか。振り返ってみれば、人間は進化の過程で色々なものを犠牲にしている。

例えば人間は二足歩行になったことで両手が自由になったけれど、代わりに腰回りが細くなり産道が狭まったから、赤ちゃんを未熟な大きさのまま産まなければならなくなった。脳が発達して賢くなったけれど、その代わりにエネルギー消費量が上がってしまい筋力を減らさなきゃいけなくなった。そうやって人類は、進化の過程で何かを手に入れる代わりに何かを犠牲にしてきた。

 

では言語は? 言語を手に入れた事で人間は何を失ったんだろう。

 

動物は鳴き声はもちろん、匂いや踊り、実際に触れ合う事でコニュニケーションをとる。イルカやコウモリは超音波を使う。超音波なんて今の科学であれば理解できるけれど、数百年前にはそれはテレパシーも同然だったかもしれない。

そんな未知のコミュニケーション手段が、見つけられていないだけで今も存在しているかもしれない。そして、そんな未知のコミュニケーション手段を、人間は言語を手に入れると同時に捨ててしまったのかもしれない。

動物が地震の前に騒ぎ出すのは何故?魚の群れが方向転換をするとき、先頭と最後尾が同時に同じ方向に向きを変えられるのは何故?オスの三毛猫は天気を読むことが出来るって本当?

動物の世界はわからない事だらけだ。猫がこちらを睨みつけている時、彼らなりのコミュニケーション手段でこちらの心を読み取っているのかもしれない。僕の心の中にはいろいろな邪念や言葉が渦巻いていて、そこに警戒心を抱いているんじゃないか。どうなんだろう。言葉でコミュニケーションをとってきた僕たちには、それはわからない。

 

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野良猫を見つけると、とりあえず鳥の鳴き真似をして注意を引いてみる。チュンチュンチュン。すると野良猫はこちらに気が付いて、じっと瞳を見つめてくる。にゃーん、こっちおいでー、と言ってみても動かない。数秒間見つめ合うと急にそっぽを向いてどこかへ行ってしまう。あーぁ。猫も人の言葉が理解できればいいのにな、そうすればもっと通じ合えるのにな、なんて思うけれど本当は違うのかもしれない。

本当は言葉なんてあるから猫と通じ合えないんじゃないか。

そう考えると、すごく残念だ。

僕たちが言葉と引き換えに捨ててしまったものは、多分、もう手に入れられない。

風化について

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「風化」という言葉はとても詩的だなと思う。

「風」に「化ける」と書いて風化。もちろん実際は風に化けているわけではない。雨風にさらされ、もしくは微生物に分解されてその姿を失う。土に還る。それを「風に化ける」と表現する。素敵な表現だと思う。詩的。

 

思い返せば、姿を失うことのメタファーとして風を用いる歌詞は多い。例えば、秋川雅史さんの『千の風になって』では死ぬことを「風になって」と表現している。他にも、前回のブログで触れたはっぴいえんどの『風をあつめて』もそう。東京オリンピックによって開発が進み、失われてしまった懐かしい東京の風景を「風」と表現している(と自分は解釈している)。

辞書にこそ載ってはいないけれど、日本語の「風」には「消失」という意味を内包しているんだろうと思う。

ちなみに「風化」は英語だと「weathering」だそうで、weatherは「天気」だから英語でも表現のニュアンスは似ているのかもしれない。

 

 

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人類は風化してしまうのか。なんて途方もない事を最近考えている。

人類が絶滅した後、人類の痕跡はいつまで残るのか。どのくらいで風化してしまうのか。人類の後に登場する知的生命体は、その痕跡を見つけることができるのか。

そんな、考えたところで何の意味の無い未来の話に思いを馳せている。

 

地球誕生からの46億年を一日に換算すると、人類の誕生は23時59分58秒頃だという。でも、それはあくまでホモ・サピエンスが誕生した数十万年前が23時59分58秒なのであって、文明を獲得した期間なんてものはほとんど「無」に等しい時間でしかない。その「無」に等しい人類の痕跡は、あと何秒、いや、0.何秒の間、地球上に存在することができるんだろうか。数秒後には風化して完全に無くなってしまうんだろうか。

 

人類の作ったほとんどの物は、時間が経てば風化してしまう。都市や道路は数百万年(地球にとっての数分だ)かかれば完全に風化してしまうらしい。

ではプラスチックはどうだろう。プラスチックは自然環境では半永久的に分解されないと言うけれど、その「半永久」は何年なんだろう。100年?1000年?一説によるとビニールで50~100年くらい、硬いプラスチックのカードだと1000年くらい分解にかかるそうだけれど、でもそれは完全に分解されて土に還るんだろうか?プラスチックの粉となって土に混ざるのか?その成分は未来の知的生命体によって発見されるんだろうか?わからない。

 

でも、と思い出す。

少なくとも僕たちは数億年前の恐竜の化石を発見できている。もっと前の生物や植物の化石も発見できている。風化せずに石化したものは発見できている。

 

 

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当然のことだけれど、ほとんどの人間は死んでも化石にはならない。

化石になるには様々な条件を満たさなければならなくて、一つの骨が化石化する確率は10億分の1だとも言われている。ノンフィクション作家のビル・ブライソン氏によると「全ての化石は奇跡」なんだそうだ。それくらい化石になるのは難しい。

では現代人はどうだろう。ただでさえ化石になるのが難しいのに、文明が起こって以来、多くの場合はその文化に従った形で埋葬されてきた現代人が化石になるなんてことがあるんだろうか。そして、もし仮に化石になったとして、地球時間で言うところの数十分間繁栄した恐竜ならともかく、2秒間繁栄しただけの人類が何億年後かに見つかるんだろうか。そして、そこに文明の存在を残す事ができるんだろうか。

これまで地球上に存在した全生物のうち、化石になっている生物種の割合は0.1パーセント以下であるとも言われている。人類はその0.1パーセントになる事が出来るのか。

わからない。確実に言えることは一つだけ。

人間を含め、ほとんど全ての死は「石」ではなく「風」になる。

 

 

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結局、人類の痕跡は地球のタイムスケールで見たとき、無いも同然なのかもしれない。

人間の全ては、残像にも残らない一瞬の明滅なのかも。

 

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しかし、物理学者のアダム・フランク氏は、人類の痕跡は未来に残る可能性があると言う。

その最も有力な痕跡は、なんと空気中の「炭素」。人類が化石燃料を使用することによって、空気中にある天然の炭素同位体と人工の炭素同位体の比率が変化するので、それを検出できれば人類の痕跡を見つけられる可能性があるんだそうだ。なるほど!(いや、正直ちんぷんかんぷん)

 

空気中の炭素か。

そう考えると「風化」という言葉が俄然リアルなものに感じる。

何億年も先の未来、その時代の科学者が風の中に含まれる炭素を測定したとき、そこに人類の痕跡があるかもしれないわけだ。風化した人類の痕跡が。

 

つまり、今は「風化」という言葉に詩的なニュアンスを感じているけれど、何億年も先には「風化」は写実的な表現になっているかもしれない。

ん、いや、そもそも何億年後に「風化」なんて言葉はないか。

冬にわかれて の話 B♭の上に鳴るソ

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あくびをしている間にも、春は近づいてきている

 

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音楽を聴いていると、自分の好きな〝和声に対しての主旋律の当て方〟があることに気がつく。

ポップミュージックを聴くとき、多くの場合は主旋律に耳を傾ける。でも、その背景にはコードが流れていて、僕たちは無意識のうちにそのコード(和声)との関係性の上でメロディ(旋律)のイメージを受け取っている。例えばCコードの上のメロディはAm7の上でも鳴らすことができるけれど、そこから受けるイメージはCコードのそれとは全然違う。

よく、音楽を聴いて「素敵なメロディだ」なんて感想を言う人がいる。僕も言う。でもメロディだけを切り取って評価することは実は難しくて、どんなコードの上にあるかによってメロディは本当の意味を持つ。(と思っている。専門的に音楽を学んだことがないので、実際に音楽の世界でどう考えられているかはわからない。)

 

だからコードとメロディの関係性にも好き嫌いは生まれる。例えばマイナーコードの上にメロのトップが9度(楽器を弾かない人には分かりにくい表現かもしれない。ごめんなさい。音階はルートを1度として数字で表現する事が出来るのです。)で入ってくると僕はゾクッとしてしまう。胸を掻きむしられる感じがして好きだ。マイナーコードの持つ悲しさの中に切なさが足されるイメージ。Al Kooper「Jolie」のイントロなんかがそう。


Al Kooper-Jolie

 

あと最近好きなのは、3和音のメジャーコード(1.3.5)に対してのトップが6度で入るメロディ。和声の中に含まれてない音がトップで入ることはそんなに多くはないけれど、それでも僕の好きな名曲には使われていることが多い。はっぴいえんどの「風をあつめて」もそうで、サビのコードがE (ミソ#シ)に対してボーカルの頭がド#。ベン・E・キングの「Stand by Me」もそうだ。


【高音質】はっぴいえんど 風をあつめて

 

和声を4和音(1.3.5.6)で捉えてジャズっぽいニュアンスになっているのか、音楽的に詳しい仕組みはわからないけれど、メロが6度で入った時の世界観がとても好きだ。3和音から外れているのに短7度のような不安感も無いし、かと言って増7度や9度のように過度なエモーションを与えるわけでも無い。コードを俯瞰で眺めているような独特の立ち位置で、まるで懐かしい思い出話でもしているような、そんな距離感が6度の音にはある。そう、思い出話。自分の中ではこれがしっくりくる表現だ。

きっとそう思うのは、先にあげた曲たちのせいかもしれない。はっぴいえんどの「風をあつめて」(そして収録されているアルバム「風街ろまん」)は東京オリンピックを境に近代化する以前の東京を歌っているし、「Stand by Me」を聴いて思い浮かべるあの映画は言わずもがな、少年時代を懐古する映画だから。思い出の6度。懐かしい音。

 

 

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寺尾紗穂さんのバンド〝冬にわかれて〟を初めて聴いたのは深夜ラジオだった。偶然流れてきた「なんにもいらない」の冒頭「なんにもいらないよ 君の幻以外は」と言う歌詞を耳にした途端、脊髄反射的に、好きだな、と思った。好きになるときはだいたいそんなものだ。理屈じゃない。理屈はだいたい後からついてくる。

いい曲だなと思って手元のギターでコードをとると最初のコードがB♭。それに対してコード頭のボーカルはソ。6度だ。なるほどな、と夜中に一人ほくそ笑む。

すぐにApple Musicでアルバムを聴くと曲も歌詞も演奏も素敵だったので、すぐに寺尾紗穂さんのエッセイ『彗星の孤独』を注文する。

素敵な言葉に溢れた本だった。

 

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最初に聴いた曲の影響も大きいだろうけれど、音楽も文章も寺尾さんの作品は総じて6度のような世界観が流れているように感じる。3和音に含まれることなく、適度な距離感を保ち、俯瞰で冷静に、感情を過度に出す事もない。でもそれが逆説的に胸に響く。太陽の周りを回る彗星のような、そんな6度の世界観。

まぁ、つまり、僕は好きだな、という事。

 

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調べてみると僕の住む街でもライブをするとの事だったので、チケットをとって観に行くことにした。

MCで寺尾さんが〝冬にわかれて〟と言うバンド名は尾崎翠の「冬にわかれて 私の春を生きなければならない」という詩のタイトルからとったのだと話されていた。

偶然にも、そのライブの日は立春だった。

〝冬にわかれて〟を観るのには最高の日だった。

 


冬にわかれて - なんにもいらない

なんにもいらない

なんにもいらない

 

 

彗星の孤独

彗星の孤独

 

 

全ての音楽はラブレター理論

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夜、知り合いから買った豆でコーヒーを淹れてみる。

ミルでガリガリと挽いたその瞬間から、コーヒーの香りが部屋に立ち込める。普段インスタントコーヒーを飲んでいる身からすると、コーヒーを淹れる作業は一種の「儀式」に近い。インスタントな作業ではなく、しっかり手間をかけて珈琲タイムを迎える儀式。カフェインの持つ効能を踏まえれば、それは「宗教的」と言っても差し支えないと思う。

お供は自家製のスコーン。お気に入りの椅子に座って、音楽は、そうだな、カーティスメイフィールドなんかのニューソウルをうるさくない程度に流してみる。

それで完璧だ。何もかも完璧。

 

 

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先日、知人がやっている喫茶店で珈琲豆を買った。その場で焙煎してくれるというのでお願いをすると、その待ち時間の間に、僕が買った豆がどんな豆で、焙煎の仕方によってどんな味の違いが出るかの説明もしてくれた。ただ、正直なところ、そんな説明をしてくれても珈琲豆にはあまり興味がないし、多分覚えられないな、なんて思っていると最後に知り合いが「まぁコーヒーって何を飲むかじゃなくて、どこで飲むかが重要なんだけれどね」と言ってくれたので安心した。よかった。僕もそう思っていた。

珈琲道とでも言うのか、コーヒーにはやれ豆の種類はどうだとか、やれ淹れ方はこうだとか、そんな能書きが付いて回ることが多い。でも僕みたいな特別コーヒー好きでもない人からすると、そんなアテンドは大して意味をなさなくて、それよりもどんな環境で飲むかの方が重要だったりする。インスタントコーヒーでも自分のソファで好きな音楽を聴きながら飲むコーヒーは美味しいし、逆にいくら美味しいコーヒーでもクラクションの鳴り響く空気の悪い雑踏で飲んでいては美味しく思えない。「高級な豆」よりも「座り心地の良いソファ」の方がコーヒーにとっては重要だと思っている。

きっと何事もそうで、「道」が極まって芸術に近づけば近づくほど、重要なことを見失ってしまうもの。

ちょうど最近、音楽についても似たようなことを考えていたんだった。

 

 

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「すべての音楽(歌)はラブレター理論」という持論がある。

これは音楽の様式ではなくて、評価の仕方についての話。音楽の評価基準は沢山あるけれど、それはラブレターと同じなんじゃないか、という持論。

そもそも歌の起源を遡れば、神様への讃歌だったり好きな人への求愛の歌なわけだから、音楽はつまるところラブレターなんだと言っても、あながち間違いではないかもしれない。そう捉えた場合、音楽を評価するときに重要なことって何なんだろうかと考えると、それはラブレターと比較してみると明確になるのかな、なんて思っている。

音楽の評価は殆どのユーザーからの場合、良い曲だとか、良いメロディだとか、歌がうまい、演奏がうまい、なんて評価基準を設けられるけれど、「道」が極まったが故に、クリエイター達はリスナーの想像をはるかに超えるような評価基準に拘りを見せることがある。

例えば、最終マスタリングに何日も費やすなんてことはザラだし、音が変わるといった理由で電圧や湿度の違う外国で録音したり、少しでも機材の音を良くするためにマイ電柱を立てたりなんてこともある。僕個人としてはそういう拘りが好きだし重要だとも思うけれど、一方でそれは一部の音楽好きにとって重要なだけで、多くのリスナーにはあまり影響がないんじゃないかなとも思ってしまう。

そこでラブレター比較。仮にそんなクリエイターの拘りをラブレターで表現するならば、音楽でいう「音質が良い」とか「良い楽器を使っている」とかは、ラブレターで言うところの「紙質が良い」とか「使っている万年筆が高級」だとかいうレベルの話に過ぎないのかもしれない。これってラブレターの受取手からすると、結構どうでもいいことで、もっと言ってしまえば、ラブレターにおいては字の上手い下手も関係がないし、文章の良し悪しだってそこまで影響ないかもしれない。重要なのはそこじゃない。

ラブレターで一番重要なのは、誰が誰にどんな気持ちで書いたかだ。それが重要。どんなに綺麗な字で書かれたラブレターだろうと、好きでもない人がいい加減な気持ちで書いた文章なら何の価値もない。逆に言えば、好きな人が書いてくれたラブレターなら紙質の良し悪しなんて関係がないし、文章の上手い下手も関係がないどころか、一言「好きです」と書いてあればそれだけで十分かもしれない。

音楽だって実はそういうものなんじゃないかと思う。だからこそ音楽には「ポップアイコン」や「ロックスター」や「アイドル」が存在する。彼ら、彼女らが歌う歌が支持を得る。曲が良いとか歌が上手いとかは実際のところ(そこまで)関係がない。結局、誰が歌っているかが重要。

 

実は、これは僕自身が趣味で音楽を作っている時に「戒め」としていることでもある。部屋で一人PCに向かっていると、サチュレーターで倍音増やして‥とか、-3dB以上リダクションを起こさないようにして‥とか、どうでも良いような事(でも本当はどうでもよくない事)ばかり考えてしまうから、そんな時は頭の片隅でもう一人の自分が囁いてくれる。そんな事は重要じゃないんだよ、あなたが自分の音を出していることが重要なんだよ、と。

まぁ、自分はプロじゃないから聴き手の事なんて一切考えずに、自分の中の「音楽道」を極めてしまえば良いのかもしれないけれど、それだと終わりの見えない作業になってしまうから。

先にも書いたように「道」を極めようとすると芸術になってしまう。娯楽には答えがあるけれど、芸術には答えがない。つまり「道」を極める事は、答えのない迷路に入る事なのかもしれない。そうすると作り手と聴き手の剥離も生まれてしまう。そうやって作られたラブレターの需要なんて限られてるし、ラブレターマニア以外からしたら魅力的じゃない。きっと愛だって伝わらないと思う。

 

 

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そんな僕にとって、コーヒーで一番重要なことは「素敵な音楽」だ。

今日のBGMはCurtis Mayfieldの「So In Love」

最高のラブレター


Curtis Mayfield - So In Love

 

去年のふりかえり 映画・音楽・本

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明けましておめでとうございます

 

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年が明ける前に2018年に聴いた音楽や観た映画、読んだ本などの振り返りをしようと思っていたのに、気がついたら2019年になっていた。たしか去年もそうだった。毎年同じことを言っている気がする。

2018年のうちにやろうと思っていたことが何も出来ていない。

そういう大人は大成しない。

 

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今年は少し時間ができたこともあって、例年になく映画を観たように思う。映画館にも足を運んだし、NetflixWOWOWオンデマンドを利用してPCやスマートフォンでも映画を見るようになった。そんな中、去年最後に見た作品は塚本晋也監督の時代劇『斬、』だった。

映画「斬、」オフィシャルサイト。塚本晋也監督作品 池松壮亮 蒼井優 出演 2018年11月24日(土)よりユーロスペースほか全国公開!


映画『斬、』特報

塚本晋也監督の過去作を何一つ見ていない上に、この映画の情報を何も入れずに映画館で見たのだけれど、はっきり言ってしまうと「よくわからない」というのが正直な感想だった。鬼気迫る殺陣シーンや臨場感のある音響、明瞭なストーリーが80分という尺に収まっていて飽きることなく観れたものの、それでも意味深な演出や台詞が多すぎて、なんだか「よくわからない」という印象。

ただ、鑑賞後に一緒に映画を観た知人と喫茶店で感想を話し合ったのだけど、そこで知人から塚本晋也監督の前作が戦争映画だったと聞いて、あーなるほど、と腑に落ちるところがあった。そうかそうか、だからあの演出、台詞なのか、と。あれ、なんだか全てが繋がってくるぞ。

なるほど、これは現代日本の置かれている状況を投影している時代劇なのか。憲法9条の改正や沖縄の基地問題塚本晋也アメリカのメタファーだし、蒼井優の感情の変化は国民感情そのもの。だからこそ、ゴロツキとの立ち回りで蒼井優が犯されているのは意味があるし、池松壮亮はあんなに苦しそうに2回も自慰をしたのか(どんな映画だ)。武力を持つことの意味を考えさせられるし、そこから生まれる負の連鎖に胸を締め付けられる。全てのセリフが確かな意味を持つ。なるほど、そういうことだったのか。

と、合っているかも分からない答え合わせをしているうちに、この映画はとんでもない名作なんじゃないかと思えてきた。「よくわからない」なんてことは全くなくて、こんな深い内容が綺麗に80分に収まっているだなんて、なんたるテクニックだ。

 

と、感動しているその一方で、鑑賞後に喫茶店で小一時間話し込まなければ良さが分からない映画というのはどうなのかとも思う。もちろんそれは自分の勘の鈍さがゆえに喫茶店での小一時間を必要としているだけであって、普通なら観ながらに理解することなのかもしれない。でもメタフォリカルな部分を意識しすぎると、映画のストーリーそのものに入り込めない気もするし、その辺りの匙加減ってすごく微妙だ。んー、映画って難しい。

 

なんて色々考えたけれど、この映画が素晴らしいのは間違いないし、何よりこれだけ考えさせられるんだから、それだけでも観る価値はあったと思う。映画に限らず考えることを求めてくる作品って魅力的だ。

 

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今年、音楽で個人的に刺さったのはNYにあるBig Crown Recordから出た作品群。知らなかったレーベルだけれど、ここから出ている7インチがどれもツボだった。まぁ7インチと言っても実際はApple Musicで聴いているんだけれど。


Bobby Oroza - Should I Take You Home - BC064-45 - Side B


Bobby Oroza - This Love Pt 1 - BC064-45 - Side A


Holy Hive - Blue Light - BC077-45 - Side B


Thee Lakesiders - Parachute


El Michels Affair feat. Lee Fields - Never Be Another You (Reggae Remix) - BC053-45 - Side A

どれもこれもゲキ渋。今年はBig Crown Recordの作品でプレイリストを作って、それをエンドレスで流してる時間が多かった。それ以外だとMr Twin Sisterの新譜もよく聴いたな。

 

邦楽はキリンジくるりサニーデイ・サービスなんかの昔から好きだったミュージシャンの新譜が相も変わらず良かった。でもそれ以外にも素敵な音楽が沢山。

 


冬にわかれて - なんにもいらない

今年一番のお気に入りアルバム。素敵。

 


折坂悠太 - さびしさ (Official Music Video)

いい曲。

 


カネコアヤノ - 祝日

ラメが目に入らないか心配になる。

 

あと新譜じゃないけれど、今年よく聴いたアルバムははNed Dohenyの「Ned Doheny」(1973)


Postcards From Hollywood - Ned Doheny

日本だと76年発表の『Hard Candy』がAORの名作として有名だけれど、その3年前に発表された1stアルバムがSSWモノとしてすごく好みだった。CSN&Y的なコーラスワークがダサかっこいいA面もさることながら、B面「Postcards from Hollywood」からのシンプルで物悲しい曲達は名曲揃い。特に「Postcards from Hollywood」は本当に名曲だと思う。

 

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本は正直あんまり読んでないのだけれど、記憶に残っているのは

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)
 

 柴田元幸さんが翻訳したポールオースターも何冊か読んだし、過去のエッセイ(「ケンブリッジ・サーカス」)も読んだから柴田さんの文章にはたくさん触れていた気がする。柴田さんが編集している雑誌「MONKEY」のバックナンバーも実は全部揃えてる。

日記

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ただの日記

 

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起床。窓から差し込んだ光がベッドの足先に。暖かい。昨晩降った雨のせいか、窓の外がキラキラしている。

 

支度をして家を出る。行きつけの美容院に。

かれこれ10年くらい担当してもらっている美容師さんと「幸福」について話をする。人の幸福度は年収800万までなら年収に比例して上がるけれど、それ以上になると変化しないんだって、だから大金持ちには別に成りたくないよね、なんて話。良かった。悲しいかな、自分はまだまだ幸福になる可能性がある。随分と。

 

午後、高校からの知り合いがカフェをオープンしたので、その店にお茶をしに行く。

大家さんの怠慢で未だに電話がひけない、そのせいで店はオープンしているのに電話番号が記載されたチラシを配布できない、なんて愚痴をきく。そっか、それは大変ね。練習中のラテアートをいただいてお腹がタプタプに。バジルチキンのサンドウィッチが美味しかった。その店で焙煎してもらった珈琲豆を買って店を後にする。12月にしては随分と暖かい。

 

帰宅。部屋でThe Friends of Distinctionの1stを聴きながらまったりネットサーフィン。

軽減税率が導入されて食料品など「生活に最低限必要なもの」の税率が8%のままになった時、鏡餅の上のミカンはどっちなんだろう、清め塩は?みたいなどうでもいい事ばかり考える。もうすぐ正月だなぁ。

 

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Grazin / Higly Distinct

Grazin / Higly Distinct

 

 


Friends Of Distinction - Grazing In The Grass

ソウルというより1969年という時代的にもソフトロック色が強くてダサかっこいい。ケニーランキンやローラニーロのカバーあり。

 

“本場”への違和感 ジャパナイズドカレーの未来

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一、二年前からカレー屋に行った折にはGoogleマップ上でその店にチェックを入れるという作業をしている。別に評価するとかではなく、ただ自分で行ったことがわかるようにチェックするだけ。近所の店だと何度も通っているから総数的には多くはないけれど、それでも30軒近くのカレー屋がチェックされている。カレー通の人には遠く及ばないにしても、一般の平均よりは随分とカレー屋に足を運んでいる方だと思う。

 

そんな自分が行くカレー屋のほとんどは店員が外国人のナンで食べるタイプのカレー屋だ。だいたいネパール人が働いていて、店内にはチョモランマの写真なんかが飾ってあって、本日のカレーとAセットBセットCセットがあって、モチモチの大きいナン(僕はそれを食べるためにカレー屋に行っているようなものだ)が出てくるお店。今、全国どこの都市でも雨後の筍のごとく増えている“本場”のカレー屋さんだ。そのことを人に話すと「あぁ本格的なタイプのカレーだ、本場のやつね」なんて言われるから「そうそう本場やつ」と合わせて返答をするのだけれど、内心その「本場」という言葉に引っかかっている。

 

というのも、あまり知られていないことだけれど、実はインド人ってあまりナンを食べない。日本人的にはナン=本場というイメージが付いているけれど、本場インドにおいてナンは高級料理店で出てくる程度のもので、一般家庭で食べることは殆どない。南インドに至ってはナンを食べる文化がそもそもない。つまりインドカレーのお店でナンが出てくるのは本格的なんかでは全然なくて、あくまでもジャパナイズされたカレーの食べ方ってことになる。ラッシーも日本の店ではどこもヨーグルトを薄めたような飲みやすいものにジャパナイズされているけれど、本場のラッシーはとても不味いらしい。もっと言ってしまえば、本場インドに「カレー」という言葉はなくて、外国人がインドの煮込み料理を総じて「カレー」と英名で呼んでいるにすぎない。呼称のことまで踏まえると、僕たちの食べている「本場のカレー」って何の事なんだか本当によくわからない。

さらに言うと、日本にあるカレーの主流である「欧風カレー」もまた無茶苦茶な代物だ。そもそもヨーロッパに欧風カレーは存在しない。あくまでも日本独自のカレー。インドの煮込み料理を「カレー」と呼んだイギリス人がブリットナイズ(そんな言い方は絶対にしない)してブリティッシュカレーを作り出して、それが日本に伝わって、日本独自の進化を遂げたものがカレーライス、欧風カレーだ。

だからインドカレーも欧風カレーも全部ひっくるめてジャパナイズドカレーと言える。本場なんて存在しないし、そもそもインドカレーと言ったところで働いてる人の多くはネパール人だ。僕の住む名古屋は餡子やモーニングの文化があるけれど、以前行ったインドカレー屋さんではモーニングで餡子ナン(!)を提供するという、とんでもなくナゴヤナイズドしたカレー屋さんだった。もう本場がブレブレ。でもそれでいいと思う。

 

越境すると全てはナイズドする。音楽だってそうで、海外の音を真似たつもりが結果として日本のオリジナルになる、なんてことは当たり前の話。はっぴいえんどフリッパーズギターもそうだった。そういうものは新しくてオリジナリティがあって面白い。

だから、いわゆる“本場のカレー屋”が好きな僕はいっそのこと“本場”の冠を捨ててしまえば良いと思ってる。そうすることでナンで食べるカレーもラーメンやカレーライスのような国民食になれるんじゃないかと。現状でこそ“本場”は宣伝文句になるけれど、これだけインドカレー屋さんが増えてしまうと、数年後には“本場”であることに魅力は無くなって、いかにジャパナイズドできているかが生き残りのカギになるんじゃないかと思う。

これ、なかなか的を得ている考えな気がする。だから頑張れカレー屋さん。目指せ国民食。そうして、いつかコンビニで焼きたてのナンが購入できる日が来ますように!

自分はナンが好きだからたまにカレー屋さんへ行ってナンだけテイクアウトすることがあるんだけれど、あれ、ちょっと気まずいんだよな。コンビニで買えたらすごく助かるのにっていつも思う。